参政暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 10:26 UTC 版)
王政復古の大号令が為された直後の慶応4年(1868年)正月26日、小河と佐々金平ら15歳から21歳の若年尊王攘夷派24名が、久留米藩の参政で開国佐幕派であった不破美作を帰城途中に暗殺した。 小河らは美作の生首を掲げて登城し、家老・有馬主膳に斬奸主意書をかかげて佐賀筑前筑後肥後九州四カ国ので幕府支援のための上京中止と、藩論の改革を迫った。狼狽した藩首脳部は小河らの要求のまま動かされ、2月5日、小河ら参政暗殺団は無罪となり、藩論は尊攘方に一変した。藩政を担っていた開国佐幕派は追放され、2月には藩主が兵を率いて上京し、新政府側に従った。少年達の武力クーデターにより藩政を握った水野正名は、藩政を動かすための私兵として若者で編成した応変隊を使い、政敵や反対する者の暗殺による恐怖政治で政務を行った。 小河はさらに古松簡二と共に七生隊を編成して自ら隊長となる。奸物とみれば恣意的に処刑を行い、豪商や応変隊を批判した学者など、気に食わなければ白昼でも公衆の面前で斬るという殺人集団であった。小河らは水野に対しても暴力で威圧するようになり、明治3年に水野が京都で三条実美より命じられた郡県制度も拒否し、攘夷と封建制度の堅持を唱え、藩政の実権は水野をしのぎ小河や古松が握っていた。このような藩の情勢は、明治新政府に危険視された。
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