医師会法案と専門学校令
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長谷川泰等は「医師は医師会に加入するに非ざれば、患者を診察することを得ず、診察する者あるときは、其の業務を停止す」という内容を含む「医師会法案」を1898年に国会へ提出した。東京帝国大学医科大学の教授入沢達吉、青山胤通、森鷗外等は、エリート意識より生じた医師差別論からその案を貴族院で廃案にせしめ、更に「明治医会」を組織して「日本の医学を良くするためには医術開業試験を廃し、粗末な私立医学校を廃校にして官立の医学校を充実させるべきである」と決議(「医学教育統一論」)し、文部省と秘密裡に協議の上1903年3月26日、今後私立医学校が存続する為には文部大臣の「認可」が必要であること、官立並みの実験設備及び建物の完備を求め、「期限は翌年の3月31日までに手続きを取らなければ廃校と看做す。調査により一点でも欠点があり、不認可の命令を受けたるものは、その命令を受けた日に於いて廃校と看做す」という済生学舎を標的とした「専門学校令」(勅令第61号)を発布せしめる。その背景には、天皇の侍医であり、長州閥の山県有朋の主治医であった初代東京帝国大学綜理池田謙斎がおり、山県との50通にわたる書簡から特別な関係であった事と池田は入沢達吉の叔父にあたり、東京帝国大学赤門派閥教授入沢達吉等による藩閥政治的権力による政治活動を可能にした実力者山県有朋との橋渡し的役割を果していたことがあげられている。
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