医学・看護教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:37 UTC 版)
高木は日本の医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色で学理第一・研究優先になっているのを憂い、英国から帰国後の明治14年(1881年)、前年に廃止された慶應義塾医学所初代校長・松山棟庵らと共に、臨床第一の英国医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。当時講習所は夜間医学塾の形式で、講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。成医会講習所は明治18年(1885年)には第1回の卒業生(7名)を送り出し、明治22年(1889年)には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した。 さらに明治15年(1882年)には芝の天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立、院長には当時の上官である海軍医務局長・戸塚文海を迎え自らは副院長となった。そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿・勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17年(1884年)移転、明治20年(1887年)には総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。 一方、ナイチンゲール看護学校を擁する聖トーマス病院で学んだ経験から、医療における看護の重要性を認識し、その担い手となる看護婦の育成教育にも力を尽くした。陸軍卿・大山巌の夫人・捨松ら「婦人慈善会」(鹿鳴館のバザーで知られる)の後援もあって、明治18年(1885年)日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立しアメリカ合衆国長老教会宣教師M.E. リード(Mary Ella Butler Reade)らによる看護教育を開始。明治21年(1888年)には昭憲皇太后臨席のもと第1回卒業生5名を送り出した。 この3つはそれぞれ後に東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校となり現在に至っている。
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