北天の化現
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田村麻呂は十一面千手観世音菩薩を信仰していたが、『公卿補任』に「毘沙門の化身、来りて我が国を護ると云々」とあることから、生前にはすでに北方鎮護の仏・毘沙門天の生まれ変わりであるとの評判が立っていた。胆沢城の北方鎮護として建立された陸奥国極楽寺(現在の国見山廃寺跡)は、天安元年(857年)に定額寺(準官寺)となった。 また胆沢城が後三年の役まで鎮守府として機能していたことから、胆沢周辺では『公卿補任』で毘沙門の化身とされた田村麻呂の評価が移入しやすい環境にあり、極楽寺毘沙門堂では「坂上田村麻呂が異敵降伏のために兜跋毘沙門天像、100体の毘沙門天像、四天王像を祀ったのが始まりである」との縁起が創出された。 極楽寺が最盛期を迎えた10世紀から11世紀にかけて北上川流域では田村麻呂と結びつけられた毘沙門天信仰(毘沙門堂)が広まり、北上地域では成島毘沙門堂、立花毘沙門堂、藤里毘沙門堂などの毘沙門堂が次々と創出された。 成島の兜跋毘沙門天像は10世紀前半、藤里の毘沙門天像は11世紀の像顕と推定され、奥六郡之司・安倍氏が全盛期を迎えた時期に一致する。成島寺の十一面観音像の胎内銘には「縁女伴氏・坂上最延・承得2年(1098年)2月10日像顕」とあり、後三年の役が終結してからも田村麻呂や坂上氏の末裔もしくは類縁関係のある人物が東北地方で活動していたことを示している。 11世紀後期頃に成立したとみられる軍記物語『陸奥話記』は、田村麻呂と結びつけられた毘沙門天信仰が広まっていく頃の陸奥国奥六郡が舞台となった前九年の役の顛末が描かれ、末尾に「我が朝、上古に屢々大軍を発し、国用多く費すと雖も、戎大敗無し。 坂面伝母礼麻呂請降、普く六郡の諸戎を服し、独り万代の嘉名を施す。即ち是れ北天の化現にして、希代の名将なり」と前九年の役での源頼義の活躍や功績を、北天の化現(毘沙門の化身)である田村麻呂と同列に置くことで頼義を称賛する意図がみられる。 天治3年(1126年)の「関山中尊寺金銀泥行交一切経蔵別当職事」に「藤原清衡朝臣・俊慶・金清廉・坂上季隆」とあり、奥州藤原氏政庁の一員として坂上姓を名乗る人物がいたことが確認されている。毘沙門天信仰が奥州藤原氏の政庁・平泉館のある平泉に広まると「大将軍(坂上田村麿公)は神であり、その本地垂迹を毘沙門様と見倣す田村信仰発祥の霊場」を称する達谷窟毘沙門堂(別當達谷西光寺)の伝承創出に影響を与え、奥州藤原氏によって栄華を極めた時代の平泉で田村麻呂に悪路王伝説が付会されたことで『吾妻鏡』に記録された。
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