北天の化現とは? わかりやすく解説

北天の化現

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:54 UTC 版)

坂上田村麻呂」の記事における「北天の化現」の解説

田村麻呂十一千手観世音菩薩信仰していたが、『公卿補任』に「毘沙門化身来り我が国護る云々」とあることから、生前にはすでに北方鎮護の仏・毘沙門天生まれ変わりであるとの評判立っていた。胆沢城北方鎮護として建立され陸奥国極楽寺現在の国見山廃寺跡)は、天安元年857年)に定額寺(準官寺となった。 また胆沢城後三年の役まで鎮守府として機能していたことから、胆沢周辺では『公卿補任』で毘沙門化身とされた田村麻呂評価移入しやすい環境にあり、極楽寺毘沙門堂では「坂上田村麻呂が異敵降伏のために兜跋毘沙門天像、100体の毘沙門天像、四天王像祀ったのが始まりである」との縁起創出された。 極楽寺最盛期迎えた10世紀から11世紀にかけて北上川流域では田村麻呂と結びつけられ毘沙門天信仰毘沙門堂)が広まり北上地域では成島毘沙門堂立花毘沙門堂毘沙門堂などの毘沙門堂次々と創出された。 成島兜跋毘沙門天像は10世紀前半里の毘沙門天像は11世紀の像顕と推定され奥六郡之司・安倍氏全盛期迎えた時期一致する成島寺の十一面観音像胎内銘には「縁女伴氏坂上最延・承得2年1098年2月10日像顕」とあり、後三年の役終結してからも田村麻呂坂上氏末裔もしくは類縁関係のある人物東北地方活動していたことを示している。 11世紀後期頃に成立したとみられる軍記物語陸奥話記』は、田村麻呂と結びつけられ毘沙門天信仰広まっていく頃の陸奥国奥六郡舞台となった前九年の役顛末描かれ末尾に「我が朝、上古屢々大軍発し国用多く費すと雖も、戎大敗無し坂面伝母礼麻呂請降、普く六郡の諸戎を服し独り万代嘉名を施す。即ち是れ北天の化現にして、希代名将なり」と前九年の役での源頼義活躍功績を、北天の化現(毘沙門化身)である田村麻呂同列に置くことで頼義を称賛する意図みられる天治3年1126年)の「関山中尊寺金銀泥行交一切経別当職事」に「藤原清衡朝臣・俊慶・金清廉・坂上季隆」とあり、奥州藤原氏政庁一員として坂上姓を名乗る人物がいたことが確認されている。毘沙門天信仰奥州藤原氏政庁平泉館のある平泉に広まると「大将軍坂上田村麿公)は神であり、その本垂迹毘沙門様と見倣す田村信発祥霊場」を称する達谷窟毘沙門堂別當達谷西光寺)の伝承創出影響与え奥州藤原氏によって栄華極めた時代平泉田村麻呂悪路王伝説付会されたことで『吾妻鏡』記録された。

※この「北天の化現」の解説は、「坂上田村麻呂」の解説の一部です。
「北天の化現」を含む「坂上田村麻呂」の記事については、「坂上田村麻呂」の概要を参照ください。

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