田村麻呂と毘沙門天
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 18:20 UTC 版)
『吾妻鏡』では田村麻呂が鞍馬寺に模して多聞天像を安置して西光寺を建立したとあるが、『扶桑略記』では鞍馬寺は延暦15年(796年)に造東寺長官従四位上藤原伊勢人が建立したとある。田村麻呂と鞍馬寺の関係性は黒漆剣を奉納したと口誦で伝わるのみとなる。田村麻呂が毘沙門天の化身といわれたことが、いつしか鞍馬寺と結びつけられた。こうして『鞍馬蓋寺縁起』から鞍馬寺との関係が深い藤原利仁伝説が田村麻呂に引き寄せられたものと思われる。 田村麻呂が生前から毘沙門天の化身や北天の化現と評価されていたこと、極楽寺毘沙門堂の伝承を背景に北上川流域で田村麻呂と毘沙門天の同一視が進んだこと、常に「田村・利仁」として組み合わされていたこと、仏典では観音と毘沙門天はイコールで解釈する説があることなどから、両者の融合は当然の帰結であったと考えられる。このように10世紀以降の東北地方でも田村麻呂と利仁の名前が混融された主人公田村麻呂利仁等の将軍が登場し、夷の賊主である悪路王や赤頭を討伐するといった縁起や伝承が平泉を中心に東北、さらには東国も含めて存在していた。これらは地域を超えたより広汎な思想的背景があったこと、田村麻呂は清水寺の建立者ではなく毘沙門堂の建立者として受け入れられていたことが背景にある。
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