悪路王伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 00:55 UTC 版)
鹿島神宮の白馬祭の由来に関して記された天福元年(1233年)の文書の一節に「初代摂関家将軍となった藤原頼経が関東下向の時に悪来王を退治した」と書かれている。 その後、正安2年(1300年)頃に成立したとされる『吾妻鏡』では「文治5年(1189年)9月28日に源頼朝が鎌倉帰還の途中に立ち寄った達谷窟は、坂上田村麻呂と藤原利仁が征夷の時に賊主・悪路王と赤頭が立て籠った岩屋と教えられた」と記されている。 これら鎌倉時代以降の文献に登場する悪路王なる人物をアテルイと結びつけようとする説もある。 高橋崇は、悪路王など坂上田村麻呂伝説全般について「採るに足らぬ俗説」としている。また新井白石が『読史余論』で陸奥の夷高丸が駿河の国清見が関まで攻め上がり、田村丸はこれをうち取り、北に追って陸奥の神楽岡で斬ったと記述していることについても「合理性と実証を重んじた史学者として白石らしからぬ叙述」と批判している。 桃崎有一郎は著書『武士の起源を解きあかす: 混血する古代、創発される中世』において、『吾妻鏡』での悪路王は田村麻呂と利仁の2人に討伐されたとあるが、2人は同じ時代の人物ではなく、悪路王についても実在した可能性がほぼないとしている。
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