北アメリカの領土争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:37 UTC 版)
「ヌエバ・エスパーニャ」の記事における「北アメリカの領土争い」の解説
17世紀になると、フランスやイギリスがスペインに遅れて北アメリカに入植地を建設し始めた。1776年には東海岸のイギリスの13植民地がアメリカ合衆国として独立し誕生する。こうして18世紀になると、カリブ海の島々、現在のアメリカ合衆国南西部、フロリダ、ネブラスカ、ルイジアナなどの領土を巡って、これら強国の間で争いが起きる。 フレンチ・インディアン戦争では、イギリスがスペインよりマニラとバハマを奪った。この戦争の結果、領土を取り決める1763年のパリ条約では、スペインはルイジアナの西半分を得て、ヌエバ・エスパーニャは北アメリカのミシシッピ川から太平洋に至る領土を保有した。しかし、この時、イギリスが奪ったマニラとバハマの返還と引き換えに、イギリスはスペインよりフロリダを得た。アメリカ独立戦争時には、イギリス軍とアメリカ軍の戦闘の隙をついて、セントルイスや最北ではミシガンのナイルズ(英語版)までを探索した。この戦争の結果、領土を取り決める1783年のパリ条約でフロリダはスペインに返還された。 1769年より、21度のアメリカ北方への遠征活動(現在のカリフォルニアへの宣教活動)がカリフォルニアのエル・カミーノ・レアル沿いで行われた。ヌエバ・エスパーニャは北アメリカ西海岸の全領土を主張しており、この地域でのイギリスとロシアとの衝突が始まった。ロシアは18世紀半ばよりアラスカで毛皮交易を始めており、イギリスもジェームズ・クック船長が太平洋を探検して以来、西海岸で毛皮交易を始めるようになっていた。 西海岸からロシアとイギリスの勢力を追い払うため、1774年と1793年にスペインはメキシコから多くの戦力を投入し、アメリカ北西部の遠征を行なった。これによってスペインが長らく主張し続けていた、西海岸の航海権が強化され、バンクーバー島フレンドリー・コーヴ(英語版)に(1789年)に砦フォート・サン・ミゲル(英語版)と入植地サンタ・クルス・デ・ヌカ(英語版)(または単にNuca)が建設された。これはヨーロッパ人による初めてのブリティッシュコロンビアへの入植であり、スペイン人による最初で最後のカナダへの入植であった。 サンタ・クルス・デ・ヌカは1795年に第三次ヌートカ協定(英語版)によって放棄されることとなった。サンタ・クルス・デ・ヌカに変わる新しい前哨基地(Fucaと呼ばれた)がファンデフカ海峡の南側のニーア湾(スペイン人はBahía de Núñez Gaonaと呼んだ)に一部建設された。これは1792年に完成を見ることなく放棄された。そこに駐在した人々、家畜、兵器などはNucaへ移送された。
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