化粧品・艶紅の歴史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 化粧品・艶紅の歴史の意味・解説 

化粧品・艶紅の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/12 08:02 UTC 版)

艶紅」の記事における「化粧品・艶紅の歴史」の解説

日本に紅が伝来する前の古墳時代において身を飾る赤といえば丹や呼ばれる鉱物性顔料であり、多く身分の高い男性が顔や体に塗りつけ己の生命力増強する目的用いられた。 中国から紅が伝来した後は、鮮やかな紅が王朝宮廷婦人たちの唇を彩るようになり、紅を引くことは女性重要な身だしなみみなされるようになった平安朝においては、薄暗い室内目立たせるために、顔全体白粉塗りつぶす化粧法が主流となった。唇にはおちょぼ口見えるようにぽちりと口紅を引き、うっすら頬紅刷く女性ほど濃厚ではないが男性貴族にも化粧習慣広まり公家化した平氏武将中には、眉を引眉にし薄く白粉を刷いて出陣した若者もいる。武士政権鎌倉期入って廃れるどころか後々稚児や高級武士の中に男性化粧残った。この時代紅は衣装などにふんだんに使用されはしたが、化粧にはほとんど姿を現さない。 室町時代後半には「紅白粉」という薄紅色の紅粉混ぜた白粉流行し時代の風潮反映して女性化粧はより生き生きとした印象与えるものに代わった。安土桃山時代に入ると身分制崩壊した混乱期乗じて有力な町人活躍し始め織豊期前後には市井女性たち自由に化粧楽しんだ江戸時代に入ると、はるばる京都から出荷され上質京紅江戸女性憧れとなっていた。美しい紅をふんだんに使う化粧女性憧れであり、大金を稼ぐ遊女は唇に止まらず爪紅といって手足の爪にほんのりと紅を差したり、耳たぶにも薄く紅を差して色っぽさを演出した。江戸時代後期には「笹紅といって下唇何度も紅を塗りつけて金緑に光らせる化粧流行したが、高価な紅をふんだんに使うため売れっ妓の遊女などを除いて下地に墨を塗って紅を節約したと言う京都の舞妓、芸妓嶋原の太夫が使う他、染料として使われる

※この「化粧品・艶紅の歴史」の解説は、「艶紅」の解説の一部です。
「化粧品・艶紅の歴史」を含む「艶紅」の記事については、「艶紅」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「化粧品・艶紅の歴史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「化粧品・艶紅の歴史」の関連用語

1
18% |||||

化粧品・艶紅の歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



化粧品・艶紅の歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの艶紅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS