勝蔵の明治維新
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勝蔵は尊皇攘夷の影響を受けているとされ、高橋敏は上黒駒蔵の神主である武藤家が尊皇攘夷思想の影響を受けた国学塾を開いており、勝蔵に影響を与えた可能性を指摘している。『元治甲子 官武通紀』収録の元治元年(1864年)4月に甲府代官・加藤余十郎が上黒駒村近辺の情勢を調査した探索書によれば、甲斐では勝蔵が浪士とともに甲府城を占領する計画を立てていたとする噂を記している。 勝蔵は甲斐を離れると、岐阜の水野弥太郎のもとに潜伏する。 慶応4年(1868年)正月に黒駒一家を解散し、「小宮山勝蔵」の変名を用いて、弥太郎の子分も入隊していた草莽隊の赤報隊に入隊する。 勝蔵は官軍側について戊辰戦争に参加しているが、赤報隊は「偽官軍」として新政府軍に処罰され、隊長の相楽総三は処刑され、水野弥太郎も捕縛され獄死している。このため赤報隊は解散となり、勝蔵は京都で四条隆謌に随行する徴兵七番隊(のち第一遊撃隊)に入隊し、「池田勝馬」の変名を名乗る。『檜峰神社 武藤家日記』慶応4年4月5日条・同4月28日条では勝蔵上洛中の様子を伝え、八王子の甲州屋与衛門の子で後に江戸深川八幡の神主古屋家の養子となり、京都で白川家の役人となった「古川但馬守」の存在を記している。古川は勝蔵の従兄弟にあたる人物で、勝蔵が四条隆謌に随行した背景には古川との関係があった可能性が考えられている。 慶応4年5月には駿府、江戸を経て、仙台戦争に従軍する。 戊辰戦争の終結後、明治3年(1870年)の兵制改革で勝蔵の所属していた徴兵七番隊は解散される。『山梨県史』(旧県史)明治3年(1870年)11月・明治5年(1872年)2月条によれば、勝蔵はそれ以前に甲斐へ戻り、新政府に甲斐の黒川金山の採掘を願い出て事業に着手している。黒川金山は甲州市塩山上萩原に所在する金山で、戦国時代に開発されていたが江戸時代初期には採掘量が減少し、閉山されていた。翌明治4年(1871年)2月2日、勝蔵は脱隊の嫌疑で捕縛され入牢し、同年10月14日に山梨県甲府市酒折近くの山崎処刑場で斬首された(「黒駒勝蔵口供書」)。勝蔵の処刑は秘密裏に執行されたと見られているが、処刑日に関して個人蔵の「黒駒勝蔵紙位碑」では勝蔵の命日を明治4年2月7日と異なる日付を記しており、勝蔵が入牢した段階で死亡したものと判断し位牌に記した可能性が考えられている。
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