初代山口電灯の失敗
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1896年(明治29年)11月、下関市において馬関電灯が開業したことで、山口県においても電気事業が始まった。同社設立に刺激され、県庁所在地の吉敷郡山口町(市制施行で山口市となるのは1929年)でも電気事業の起業が具体化される。翌1897年(明治30年)1月21日には発起人に対し逓信省の事業許可が下りた。中心人物は山口の旧家で酒造業者の萬代利七で、下関に先を越されたので山口でも早急に事業化するようにと旧知の伊藤博文より勧奨されたのが起業の契機という。 1897年10月12日、山口町石観音町27番地にて山口電灯株式会社(初代)が設立された。資本金は3万円。萬代自身が社長に就いた。山口電灯では東京電灯からの技術導入を元に電源として石観音町へ火力発電所(出力45キロワット、発電機は三吉工場製)を建設、山口町と周辺の上宇野令村・下宇野令村・宮野村・大内村を供給区域として1898年(明治31年)4月3日に開業した。山口県では馬関電灯に続く2番目、中国地方全体でも前年の尾道電灯(広島県)に続いて6番目に開業した電気事業となった。 こうして開業に至ったが、他の中国地方の電気事業者が創業期の不振を乗り越え発展していったのに対し、山口電灯では需要家300戸程度・電灯数650灯前後から伸びがみられず、利益が上がることさえなく赤字経営が続いた。経営改善のため1900年(明治33年)5月に製氷業への進出を企画するも、そのための設備新設・改修さえも不可能な状態であり、結局翌1901年(明治34年)7月26日の株主総会にて山口電灯は会社解散と決定、8月31日をもって事業は閉鎖された。解散に伴い、同年10月12日、監査役を務めていた地元の穀物商古見嘉三郎が廃業を惜しんで事業を1万円で引き取った。この個人営の「山口電灯所」は半年後の1902年(明治35年)3月、古見から取締役であった賀田富次郎に転売され、さらに同年7月には山口県出身の実業家で発起人でもあった賀田金三郎が引き受けた。 山口町における電気事業が失敗したのは、電灯料金が他の事業者に比べ高すぎる(1908年末時点で10燭灯月額1円52銭)ことと、町に夜間需要の乏しい県庁・学校はあるが商工業が未発達で電灯需要が希薄であったことが理由とされる。
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