初代山口電灯の失敗とは? わかりやすく解説

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初代山口電灯の失敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 16:33 UTC 版)

山陽電気」の記事における「初代山口電灯の失敗」の解説

1896年明治29年11月下関市において馬関電灯開業したことで、山口県においても電気事業始まった同社設立刺激され県庁所在地吉敷郡山口町市制施行山口市となるのは1929年)でも電気事業起業具体化される。翌1897年明治30年1月21日には発起人対し逓信省事業許可下りた中心人物山口旧家酒造業者萬代利七で、下関先を越されたので山口でも早急に事業化するようにと旧知伊藤博文より勧奨されたのが起業契機という。 1897年10月12日山口町石観音町27番地にて山口電灯株式会社初代)設立された。資本金は3万円萬代自身社長に就いた山口電灯では東京電灯からの技術導入元に電源として石観音町火力発電所出力45キロワット発電機三吉工場製)を建設山口町周辺の上宇野村・下宇野宮野村大内村供給区域として1898年明治31年4月3日開業した山口県では馬関電灯に続く2番目、中国地方全体でも前年尾道電灯広島県)に続いて6番目に開業した電気事業となった。 こうして開業至ったが、他の中国地方電気事業者創業期不振乗り越え発展していったのに対し山口電灯では需要家300程度電灯650灯前後から伸びがみられず、利益上がることさえなく赤字経営続いた経営改善のため1900年明治33年5月製氷業への進出企画するも、そのための設備新設改修さえも不可能な状態であり、結局1901年明治34年7月26日株主総会にて山口電灯会社解散決定8月31日をもって事業閉鎖された。解散に伴い同年10月12日監査役務めていた地元穀物古見三郎廃業惜しんで事業1万円引き取った。この個人営の「山口電灯所」は半年後の1902年明治35年3月古見から取締役であった賀田富次郎に転売され、さらに同年7月には山口県出身実業家発起人でもあった賀田金三郎引き受けた山口町における電気事業失敗したのは、電灯料金他の事業者に比べ高すぎる(1908年時点10燭灯月額1円52銭)ことと、町に夜間需要乏し県庁学校はあるが商工業未発達電灯需要希薄であったことが理由とされる

※この「初代山口電灯の失敗」の解説は、「山陽電気」の解説の一部です。
「初代山口電灯の失敗」を含む「山陽電気」の記事については、「山陽電気」の概要を参照ください。

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