初の赤字決算と退任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 00:54 UTC 版)
「清水義之 (実業家)」の記事における「初の赤字決算と退任」の解説
2002年7月、十六銀行がサブバンクであった大日本土木が経営破綻する。同社のメインバンクであるUFJ銀行(旧東海銀行)と親会社であった近畿日本鉄道が下したこの破綻処理に対して、十六銀行は全く把握をしておらず、発表の当日、小島にとっては「寝耳に水の話」であり、同社の経営破綻発表の当日は視察先の大垣から急遽本店に引き換えしたほどであった。また、「本業はまずまずだった。査定は難しく『要注意先』から、個別の引当金を積む『破綻懸念先』には移せなかった」こともあり、2002年3月期末における同社向け債権への引当率は2~3%程度に過ぎず、破綻処理には巨額の貸倒損失の計上が必要であった。結果、2003年3月末決算では、同年の日銀考査を考慮し貸倒引当を保守的に引き当てるなどあえて損失を前倒しにした側面もあるものの、当期損失332億円を計上、終戦直後の新旧勘定分離による赤字決算を別にすると、事実上初の赤字決算を余儀なくされた。 戦後最大の危機の中、これに伴い行員の賞与水準も管理職で20%、その他の職員で10~15%程度削減され、これ以降、行内に於ける清水の求心力は急速に失われることになる。専務時代に小島は、経営破綻した長銀・日債銀両行の最後の頭取らの逮捕に関して「チャンスで犠飛ひとつ打てなかった選手はおとがめなしで、最後の打者だけ責められている。時効の壁はあるにしろ、最後のトップだけ逮捕されるのは気の毒だね」と語っていたが、前任者・清水に対して経営責任の明確化を求めるようになっていく。 こうした中、2004年10月には任期満了に伴い岐阜商工会議所会頭を退任、同年、長年にわたり側近政治の象徴であった十六ディーシーカード社長も退任となった(当初、十六ディーシーカード社長は、それまで設置されていなかった同社会長職に就任することで引き続き影響力の保持を図ったが、小島に一蹴されている)。そして、2005年6月、再び金融庁に委託された東海財務局定期検査の折、代表取締役会長から一気に役員でない顧問に退いた(清水の退任と同時に、母店支店長ら側近役員も退任となっている)。なお同年4月2日に、清水の母・栄が逝去(享年93)している。 代表取締役在任は実に21年に及んだが、ワンマン体制で側近政治を許す経営手腕への疑義は公然の秘密であった。また、任期の大半は病魔に悩まされ、末期には意思疎通が困難であったと言う。なお、岐阜商議所会頭退任時も十六銀行会長退任時も、記者会見等で公に出てくることは無かった。
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