出版社・担当編集者との関係
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「松本清張」の記事における「出版社・担当編集者との関係」の解説
文藝春秋とは、芥川賞受賞以降、晩年まで密接な関係を持ち続けた。藤井康栄は、清張担当編集者の代表的な人物である。藤井は文藝春秋新社入社後、『別冊黒い画集』シリーズで清張担当となり、『昭和史発掘』関連の取材を行った。以後『松本清張全集』の編集を経て、同社退社後は、北九州市立松本清張記念館の館長を務めている。 藤井の元上司にあたる半藤一利は、同社在職時に『現代官僚論』を担当し、のち『週刊文春』『文藝春秋』各編集長として、『西海道談綺』などの取材旅行に同行した。 森史朗は、同社在職時、1970年から『文豪』『古代探求』など3年間清張を担当、のち『空の城』で再び清張を担当した。 高橋一清は、同社在職時、『強き蟻』『西海道談綺』を担当した。 光文社からは、『点と線』の刊行以降、多数の作品が刊行され、同時代読者にとっての「松本清張=推理小説」のイメージを広めることにつながった。清張担当は、『点と線』以来の松本恭子と、カッパ・ノベルスの初代編集長を務めた伊賀弘三良が中心となった。また、櫻井秀勲は、同社在職時、『波の塔』で清張を担当した。のちに伊賀・櫻井が同社を退社し祥伝社を設立した際、清張は『人間水域』を「ノン・ブック」の創刊ラインナップに与えた。 新潮社とは、長編小説の連載や短編の発表など、晩年まで多くの作品の発表舞台となった。また同社は、文庫の刊行歴において文藝春秋や光文社などの他社に先行していたため、多くの代表作が同社の文庫に収録されることになった。須賀契子は、同社入社後、『わるいやつら』『けものみち』『夜光の階段』などで清張を担当、30年以上の間、清張との関わりが続いた。 王子博夫は、同社入社後、『禁忌の連歌』シリーズで清張を担当。結婚式の主賓を清張が務めるなど付き合いを深めたが、『黒革の手帖』完結の1年後に東名高速道路上で事故死した。 中央公論社(現:中央公論新社)とは、文藝春秋の藤井康栄の妹にあたる宮田毬栄が『黒い福音』で清張を担当するなどの関わりがあり、当初『松本清張全集』は同社から刊行される計画も持たれていた。しかし同社の『日本の文学』シリーズ企画の際、清張との関係が悪化し(三島由紀夫の節を参照)、その後は『眩人』など少数の作品との関わりに止まり、ひとり宮田が清張関連の窓口的存在となった。 このほか、朝日新聞社では、重金敦之が同社在職時、『黒の様式』『歌のない歌集』各シリーズなど、『週刊朝日』掲載作品を中心に清張を担当した。
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