再度のJリーグ参加構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:02 UTC 版)
「大塚製薬サッカー部」の記事における「再度のJリーグ参加構想」の解説
一方、徳島県サッカー協会は県内トップチームの強化の必要性を痛感し、もし大塚製薬にその意思がないならば自前でクラブを作ってJリーグを目指そうと決断し、2002年に徳島FCカバロス2002を発足した。最下層の徳島県リーグ3部B(J1から数えると7部相当)からのスタートとなったが、県協会のバックアップで早期の昇格を目指しており、毎年昇格が叶えば2008年にJ2へたどり着ける計算だった。 2003年4月、徳島県の知事に就任した飯泉嘉門氏は、選挙公約に「徳島にJリーグクラブを作る」という一項目があり、徳島県サッカー協会によるプロチーム設立についての公開質問に対しても、慎重な態度であった大田正前知事に対して、飯泉氏は「徳島県のプロジェクトとして実現させる」と答えた。 当選後、飯泉氏はその公約通りにJリーグクラブの創設へと精力的に取り組み始め、県庁内にプロジェクトチームを組織し、自らも大塚製薬や徳島県サッカー協会との交渉を始め、検討の結果、新チームの母体は大塚製薬サッカー部とし、本拠地は鳴門陸上競技場の小規模改修で予算を抑えるという案になった。 徳島県の方針に対し、選挙で飯泉知事を支援した大塚製薬はサッカー部の譲渡を認めた。さらに大塚製薬は新会社へ出資するとともに新チームのユニフォームの胸スポンサーとして4億円の年間運営費の多くを負担し、グループ内の各企業もこれにならう事などが決まった。しかし新チームは県民チームであり、運営会社は大塚グループから外す事、練習拠点は徳島県が早期に整備して大塚製薬所有のグラウンドから移転することなどが定められた。林威宏、大場啓、片岡功二などの大塚製薬の社員選手はJ2参加後に大塚製薬の出向社員として2シーズンの猶予が与えられた後、サッカーを引退して社業に専念するか、大塚製薬を退社してプロ契約を結ぶかのどちらかを選ぶ事になった。 一方で、徳島県サッカー協会は飯泉知事の構想に当初抵抗したが、カバロスを新チームの下部組織に移管する事で合意した。さらに、焦点となっていた新チームの名称も「ヴォルティス」の復活を認めた。ただし、今回は「徳島」を愛称の前に付け、"tis"と徳島以外の四国3県を関係づける意味を除去する(愛媛県では同じJFLに所属する愛媛FCがJリーグ昇格に向けて活動中だった)などの手直しが行われ、2004年7月に新チーム名「徳島ヴォルティス」が発表され、9月に運営法人・株式会社徳島ヴォルティスが設立された。
※この「再度のJリーグ参加構想」の解説は、「大塚製薬サッカー部」の解説の一部です。
「再度のJリーグ参加構想」を含む「大塚製薬サッカー部」の記事については、「大塚製薬サッカー部」の概要を参照ください。
- 再度のJリーグ参加構想のページへのリンク