再度のパリ行き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 07:55 UTC 版)
「ジャン=フランソワ・ミレー」の記事における「再度のパリ行き」の解説
ミレーは、帰省するが、シェルブールで家政婦をしていたカトリーヌ・ルメール(当時18歳)と交際を始めた。しかし、カトリーヌの実家はブルターニュ地方ロリアンの貧農であったこともあり、ミレーの祖母や母はカトリーヌとの交際に大反対であった。ミレーは、この頃、シェルブール市立大学の美術教授に招聘されていたが、実家に近い地方大学を避け、再びパリに出ることにした。パリ行きの資金を実家に頼れなかったため、ル・アーヴルで個展を開いて絵を売ったり、肖像画の注文を受けたりして、1年間で900フランをためた。この時期には、パステル調の色彩を使ったロココ風の絵画を制作しており、「華やかな手法(マニエール・フルーリ)」の時代と呼ばれる。 こうして、1845年末、カトリーヌとともにパリに到着し、1846年初め、ロシュシュアール通り(英語版)に住居を定めた。7月には、第1子となる長女マリーが生まれた。当時のロシュシュアール通りは、若い画家、彫刻家、作曲家、演劇人たちが安い家賃を求めて集まっていた。ミレーは、この街で、シャルル・ジャック、ナルシス・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、テオドール・ルソー、コンスタン・トロワイヨンといった後のバルビゾン派の同志と出会った。また、後の支援者かつ伝記作家となるアルフレッド・サンシエとも出会った。 この時期のミレーは、女性の裸体画を多く制作して収入源とした。サンシエの伝記では、次のようなエピソードが紹介されている。ミレーは、ある晩、画廊の前で彼の『浴女たち』を眺めている2人の若者を目撃した。若者の1人が「この絵の画家を知っているか」と聞くと、「うん、裸の女しか描かないミレーという画家だ」と答えた。その会話を聞いたミレーは、生活は苦しくなるだろうが、二度と裸体画を描くまい、自由に心に思うものだけを描こうと決意し、田園をテーマとした作品に向かった、という。ただ、これに対しては、当時のサロンでは女性の裸体を描いた歴史画が多いことから、裸体画にもサロンで認められるための肯定的な意味があるという指摘がある。 1847年のサロンに、『樹から降ろされるエディプス』を提出し、入選した。赤子の時に捨てられたエディプス(オイディプース)が羊飼いの夫婦によって発見されるギリシア神話の場面を描いた作品である。 『横たわる裸婦』1844-45年。油彩、キャンバス、33 × 41 cm。オルセー美術館。 『樹から降ろされるエディプス』1847年。油彩、キャンバス、135.9 × 77.5 cm。カナダ国立美術館。1847年サロン入選。
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