内務官僚を経て本所区長
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「太田實 (実業家)」の記事における「内務官僚を経て本所区長」の解説
小笠原島より帰京した後、明治12年12月20日には太政官に出仕して海軍省の属員となったが、幾ばくもなくして、『明治日報』の主幹として勧誘され、明治14年5月31日で太政官を辞した。 明治15年、明治日報を去って後、再び官僚として、明治16年1月17日、内務省准奏任御用掛被仰付衛生局勤務となり、同局報告課副課長を経て同12月衛生局統計課長を務める。同年、医師後藤新平が衛生局に採用され、同輩として勤務している。明治18年6月には衛生局第三部報告課長を務めている。翌19年8月25日に東京府本所区長となる。 区長として、主として教育の普及を企図し、各種学校施設の新増築を推進した。すなわち、有志の協賛によって江東幼稚園を新築し、また中和小学校をはじめ明徳本所などの諸学校を増築し、さらに中和・明徳の両校に附属幼稚園を設けるなどを行った。あるいは、貧民の就学困難な子弟を教育するため、百方周旋し同志1200名と共同出資により「教育義社」を興した。区長在職中力を教育に用いたこと最も顕著であった。 さらに、同区有志の医師に協力して「種痘義社」なるものを新設し無料にて区民に種痘を勧奨した。そのほか、区内の有志から1万3千余円の寄付金を集め公会堂を新設し公共の便に供した。明治19年11月27日に従七位に叙せられる。 さらに、明治22年には交通往来の便を図るため、千葉県有志が企業を断念し廃絶していた総武鉄道事業を喚起した。 同年5月に市制が施行され、いったん区長を非職したが、6月改めて東京市本所区長(2代目)に選任された。いよいよ国会開設の日が迫ってきた明治23年1月、本所区長を依願辞任する。本所区小学生徒子女一千人がその功績を後昆に伝える記念として、松梅樹を校庭に植え、頌徳文を誦した。同年1月に東京株式取引所肝煎に就任(明治23年1月~25年1月の2期務める)。2月には、本所区会議員の議長に推される。
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