全焼からの再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:06 UTC 版)
火災の3ヵ月後となる11月15日に実質新築となる再建工事を着工、翌1952年4月5日にネット裏に2階席を備えた鉄筋コンクリート造の新スタンドが完成。収容人数は、30,000人となった。また、この年より日本プロフェッショナル野球協約の条文(第38条)としてプロ野球地域保護権(フランチャイズ制度)が導入され、正式に協約上の本拠地球場となった。再建後最初となる名古屋戦の相手は火災時と同じ巨人であった。中日の他に近鉄が準本拠地として主催ゲームを開催、毎日も1953年に3試合公式戦を開催している。 1953年6月20日、日本では後楽園、大阪、西宮に次いで4番目となる照明設備が完成し、同年6月25日の名古屋対広島戦で初ナイターが開催された。なお照明設備は1963年にはカクテル光線化されている。1955年はスタンド増築により、収容人数が35,000人へ増加。 この他、1962年から試合のない日にはゴルフ練習場としても利用されるようになった。また1965年には株式会社中日スタヂアムが球場経営の他に多角化経営の一環としてホテル等の土地・建物の運営も手がけるようになり、岐阜県吉城郡上宝村(現:高山市)に「中日ロッジ」をオープンさせた。 1973年4月にはレフトスタンド上段(バックスクリーン左側)にコカ・コーラのネオン広告を組み込んだ電光掲示板が完成、試合中には打者の打率等を表示した。
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