全焼火災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:06 UTC 版)
ところが1951年8月19日の午後4時前、名古屋ドラゴンズ(現・中日ドラゴンズ)対読売ジャイアンツ19回戦の3回裏名古屋攻撃中に、ネット裏スタンド、内野指定席上段から火災が発生した。火は折からの強風にもあおられ瞬く間に燃え広がり、午後5時40分の鎮火までに球場がほぼ全焼した他、正面スタンド入口脇の球場事務所、熊谷組の事務所、駐輪場、周辺の民家4戸、工場3棟も全焼してしまった。満員の観客(この中には後に中日の選手・監督となる高木守道がいた)、両軍の選手、関係者から内野席を中心に死者4名、治療を受けた重軽傷者318名、治療を受けずに(受けられずに)帰宅した負傷者多数を出す大惨事となった。この日の名古屋先発で戦時中に空襲を経験していた杉下茂は、火の手を見た瞬間「ああ百年目、俺ももうだめだ」と思ったという。出火の原因は床板の隙間から下に落ちたタバコの吸殻が床下にたまっていた紙屑に引火した為と見られる。 この火災の為に中日球場が使用不能となったことにより、8月19日以後の球団主催公式戦の日程は鳴海球場を中心に刈谷、浜松、四日市、松阪、滋賀県の彦根、神奈川県の茅ヶ崎の各球場にそれぞれ振り替えられて開催された。
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