全日本 第4期以降
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1994年に日本リーグが「Vリーグ」へと改められ、新たな強化策が模索される一方、Vリーグのプロ化を求めた山田重雄が日本バレーボール協会の理事を退任し日立も退社するなど、日本バレーボール界の混乱が続いた1995年、小島が率いるユニチカ・フェニックスが国内リーグで15年ぶりに優勝。 同年に小島は全日本監督へ復帰した。最高殊勲選手としてユニチカのVリーグ優勝に貢献した佐伯美香 をエースに、同じくユニチカでセッターの中西千枝子を主将に据える一方、山田人脈とされて日立を解雇された後、イタリア経由で帰国した大林素子と吉原知子を再び全日本女子に選んだ。さらに前年のダイエー・オレンジアタッカーズ初優勝に貢献した山内美加や日立残留組の多治見麻子などを起用する「オールジャパン」編成を組んでワールドカップに臨んだ。しかし結果は6勝3敗で12チーム中6位に終わり、アトランタ五輪の出場権を逃した。小島はこの大会後に監督を辞任。 1996年に行われた同五輪の世界最終予選では、日本バレーボール協会の強化本部長として、ユニチカで自分の下でコーチを務めていた吉田国昭を監督に据え、同五輪の出場権を獲得。しかし本大会では9位に終わり、入賞すら逃す史上最悪の結果となった。 その後も小島は強化本部長・選手団長に留まり、次の全日本監督の葛和伸元を支えた。しかし、ユニチカからは熊前知加子 が参加していた全日本女子は2000年6月にシドニー五輪最終予選で敗退。初めて五輪出場権を逃した。 同年7月、ユニチカ経営陣がフェニックス(女子バレーボール部)の休部を決めると、小島は引受先探しに追われた。 8月、東レがフェニックスの全体移籍に同意して東レ・アローズとなり、日紡貝塚・ユニチカとしての歴史は1954年からの46年間で終了した。 小島は強化の一線からは退いたが、その後は近畿バレーボール連盟の会長を務めた。 2014年5月27日午前0時15分、肺炎のため大阪市内の病院で死去。83歳没。
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