全共闘運動の興隆
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「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「全共闘運動の興隆」の解説
これらの大衆的政治闘争に呼応して大学内の闘争も昂揚することとなった。1967年から68年にかけて、中大の学費闘争と東大の医学部登録医制度反対に端を発する東大闘争が闘われた。また、5月21日からは日大の使途不明機問題から日大闘争が始まるなど、この年は政治闘争と学園闘争が結合していった時期であった。 日大闘争と東大闘争のもりあがりは、全国の大学に全共闘運動を拡大させた。日大闘争では、大学に抗議する学生を当局が処分したことをきっかけとして1万名の学生が結集して全学共闘会議(秋田明大議長、田村正敏書記長)が結成され、3万人の学生による大衆団交にまで発展した。日大全共闘の結集した学生のほとんどが学生活動家ではなくそれまでノンポリだった者であった。医学部の闘争から学内全体に波及した東大闘争では、6月の安田講堂占拠と機動隊による排除、総長団交の物別れを経て、7月5日に全学共闘会議が結成された。全共闘の学生らは「帝大解体」「自己批判」を主張して権力との衝突を見据えた闘争を行い、秋には全国の活動家が東大に結集することとなった。11月22日、安田講堂での日大・東大闘争勝利全国学生総決起集会には20000人の学生が集まった。日共系は大学当局と「10項目確認書」を取り交わし、「大学正常化」にむけて封鎖中の建物への武装襲撃を行った。三派全学連を中心とする部隊が安田講堂を占拠する中、1月18日東大構内に機動隊が投入され、2日間の攻防の末安田講堂封鎖は解除された。時を同じくして日大では、神田カルチェ・ラタン闘争が行われた。個別要求闘争をこえて闘われた大学解体の闘争は全共闘の特徴でもあったが、同時に闘いの展望を失って動揺する性質もあり、この動揺を立て直す論理をノンセクト・ラジカルは持ちえなかった。この間隙をぬって、自然発生的な全共闘運動を、強固な組織性と論理をもった既存新左翼党派が蚕食していった。1969年9月5日、全国全共闘連合(全国全共闘)結成大会が開かれたが、もはや運動的な生命力はなくなっていた。これを以て、全共闘運動は終焉を迎えたとされる。全国全共闘の「全国全共闘宣言」は、矛盾を露呈する全員加盟自治会=ポツダム自治会および戦後民主主義をのりこえたソビエトとして、小ブルジョワ的学園改良運動(ここでは日共のこと)と革命的学生運動(ここでは全学連のこと)への両極化をのりこえ発展させる者としての立場を謳ったが、結局は一年足らずで解散に至ることとなった。ただし全共闘運動の高揚は、それ以前の時点で四分五裂していた全学連と各セクトの命脈を繋ぎ、勢力を拡大させる役割を果たした側面もあった
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