全共闘運動の興隆とは? わかりやすく解説

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全共闘運動の興隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 04:37 UTC 版)

全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「全共闘運動の興隆」の解説

これらの大衆的政治闘争呼応して大学内の闘争昂揚することとなった1967年から68年にかけて、中大学費闘争東大医学部登録医制反対に端を発する東大闘争が闘われた。また、5月21日からは日大使途不明問題から日大闘争が始まるなど、この年政治闘争学園闘争結合していった時期であった日大闘争東大闘争もりあがりは、全国大学全共闘運動拡大させた。日大闘争では、大学抗議する学生当局処分したことをきっかけとして1万名の学生結集して全学共闘会議秋田明大議長田村正敏書記長)が結成され、3万人学生による大衆団交にまで発展した日大全共闘結集した学生のほとんどが学生活動ではなくそれまでノンポリだった者であった医学部闘争から学内全体波及した東大闘争では、6月安田講堂占拠機動隊による排除総長団交物別れ経て7月5日全学共闘会議結成された。全共闘学生らは「帝大解体」「自己批判」を主張して権力との衝突見据えた闘争行い秋に全国活動家東大結集することとなった11月22日安田講堂での日大東大闘争勝利全国学生決起集会には20000人の学生集まった日共系は大学当局と「10項目確認書」を取り交わし、「大学正常化」にむけて封鎖中の建物への武装襲撃行った。三派全学連中心とする部隊安田講堂占拠する中、1月18日東大構内機動隊投入され2日間の攻防の末安田講堂封鎖解除された。時を同じくして日大では、神田カルチェ・ラタン闘争が行われた。個別要求闘争をこえて闘われた大学解体闘争全共闘特徴でもあったが、同時に闘い展望失って動揺する性質もあり、この動揺立て直す論理ノンセクト・ラジカル持ちえなかった。この間隙をぬって、自然発生的な全共闘運動を、強固な組織性論理をもった既存新左翼党派蚕食ていった1969年9月5日全国全共闘連合全国全共闘結成大会開かれたが、もはや運動的な生命力なくなっていた。これを以て全共闘運動終焉迎えたとされる全国全共闘の「全国全共闘宣言」は、矛盾露呈する全員加盟自治会ポツダム自治会および戦後民主主義のりこえソビエトとして、小ブルジョワ学園改良運動(ここでは日共のこと)と革命的学生運動(ここでは全学連のこと)への両極化のりこえ発展させるとしての立場謳ったが、結局は一年足らず解散に至ることとなった。ただし全共闘運動高揚は、それ以前時点四分五裂していた全学連と各セクト命脈繋ぎ勢力拡大させる役割果たした側面もあった

※この「全共闘運動の興隆」の解説は、「全日本学生自治会総連合の歴史」の解説の一部です。
「全共闘運動の興隆」を含む「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事については、「全日本学生自治会総連合の歴史」の概要を参照ください。

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