修養時代
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「斎藤善右衛門 (9代)」の記事における「修養時代」の解説
安政元年(1854年)閏7月28日、黒沢斎藤家の8代斎藤善次右衛門の長男として陸奥国桃生郡前谷地村黒沢に生まれた。幼名は養之助。黒沢斎藤家は東北三大地主と称される大地主の近代資産家であった。 地元で増田小五郎に四書五経の句読を受け、慶応3年(1867年)仙台に出て叔母すゑの白幡嘉膳宅に住み、藩校養賢堂に通い、秋保太輔に経史、桜田景輔に剣道を学んだ。 慶応4年(1868年)5月2日父が白河口の戦いで戦死し、家督を継いだ。明治元年(1868年)12月桃生郡が仙台藩領から外れると、士分を保つため仙台に住み、善寿郎と改称した。明治2年(1869年)4月1日仙台藩再興のため蹶起した見国隊に屋敷を襲われ、家財を押収された。明治3年(1870年)10月家禄を奉還して帰農し、11月祖父から善右衛門を襲名し、横沢周治・堀江復・今野直好を家庭教師に招いて学問を学んだ。 明治4年(1871年)4月前谷地村長、5月二等戸長となったが、事務は叔父廉吾に一任した。1874年(明治7年)4月8日辞職すると、後任遠藤雄吾から地券の土地検査における不正を告発されたが、捜査で不正は認められなかった。 1875年(明治8年)3月関西に出て、西日本各地を行商しながら各地の酒造家に海外輸出を持ちかけ、長崎から大陸渡航を構想したが、8月母の病気により帰郷した。1876年(明治9年)8月から1878年(明治11年)8月まで家業の預金・貸金請求等に係る訴訟事務を担当した。 1878年(明治11年)11月後見人廉吾が隠居し、全権を得た。1880年(明治13年)10月宮城県会議員に当選したが、辞退した。1881年(明治14年)4月から6月まで再び関西を遊歴し、日本酒海外輸出会社の設立を呼びかけたが、賛同者を得られず帰郷した。
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