保養・療養産業の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 15:39 UTC 版)
「バート・エントバッハ」の記事における「保養・療養産業の発展」の解説
ドイツ赤十字看護師会の看護師エルフリーデ・ガイスラーは、療養所「デンノッホ」をエントバッハに建設することにより、この町の療養施設の基礎を築いた。ギーセンでの治療の傍ら、彼女は、整形外科指導医ハンス・シュトルクについて学ぶことができた。彼女はシュトルクの援助を受けて、エントバッハの家にクナイプ式水浴施設を設けた。水浴室が完成する前に、洗濯場でエミリー・シュミット夫人の治療が行われた。治療器具として、全く普通のじょうろが用いられた。 シュトルク教授は1950年から助手のネーベル医師とともに薬剤を用いない物理療法・食事療法による治療をエントバッハで開始した。これが本格的なクナイプ式湯治場の始まりとなった。 1950年、当時の町長テオドール・ベッカーの主導下で、エントバッハにクナイプ式水浴・観光協会が設立された。当時の隣接町村(現在はこの町に合併している)ボッテンホルン、ハルテンロート、ヴォンメルスハウゼンは、こうした開発を、最初は懐疑しながら、後には興味を持って見守った。1953年からは、こうした隣接する町村にも「白い工業」である観光業に携わることを目的とした観光・美化協会が設立された。こうした活動は州政府による積極的な支援を受けた。ハルテンロートは1962年12月4日、ヴォンメルスハウゼンは1962年12月20日、ボッテンホルンは1964年に、それぞれ「Staatlich anerkannter Erholungsort」(州公認保養地)の称号を得た。 エントバッハはこれらとは違う道をとった。エントバッハは一貫して「Kneipp-Kurort」(クナイプ式水浴の湯治場)の称号を目指して努力を行い、早くも1955年にこれを獲得した。1970年にこの称号は「Kneipp-Heilbad」(クナイプ式薬湯)と改められた。 エントバッハでの湯治と、3つの保養地への旅行は1950年代から1960年代初めに発展し、高い評判を得た。かなり多くの古い農作業用建造物が客室に改造され、ペンションに改築された。また、新しいペンションも建設された。たとえば、ヴォンメルスハウゼンだけでものべ宿泊客数は、1960年の 5,300人から、1964年には 13,080人にまで増加した。その後、3つの州認定保養地(ボッテンホルン、ハルテンロート、ヴォンメルスハウゼン)の滞在客数は減少していった。エントバッハは、当初は客数減少を被らなかった。 客数減少の背景には、増加する長距離旅行、増大するゲストの居住性に対する要求(各室にトイレとシャワーが必要など)、魅力に乏しいレクリエーション施設、滞在客の要望に応える柔軟性を欠いたレストラン、低下した家主の投資意欲などが複合的に影響していた。滞在客は、1963年以降、18日以上の休暇を改造された納屋や家畜小屋で過ごすことはしなくなったのである。オーストリアや憧れの地イタリアが誘い、旅行客はそちらに流れていった。集中的な努力にもかかわらず、このトレンドを変えることはできなかった。ヴォンメルスハウゼン地区には現在、2軒のペンションと2軒の貸別荘があるだけである。エントバッハも現在客不足に悩まされている。
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