保養所入所と短歌、野原水嶺との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 00:05 UTC 版)
「大塚陽子」の記事における「保養所入所と短歌、野原水嶺との出会い」の解説
北海道引き揚げ後、一家はまず帯広から北見に転居していた叔父宅に身を寄せた。そのような中で小学校の校長を務めていた父の弟から、恵庭小学校で教師のなり手を探していると話を聞いた。当時は高等女学校卒で助教諭になれたため、陽子と姉が恵庭小学校で働いてくれれば家も斡旋するとの話となり、1948年10月に一家で恵庭に引っ越し、陽子は18歳で恵庭小学校の助教諭となった。18歳で教師となった陽子はパーマをかけ、おしゃれをして教壇に立った。やんちゃ盛りの子どもたちに手を焼き、すぐに泣いて校長先生を呼びに行くような先生だったが、農村地帯の純朴な子どもたちを教えることは陽子にとって楽しい経験でもあった。しかし教師となって約1年後、結核が判明して療養生活に入らざるを得なくなった。 1949年に陽子が入所したのは洞爺湖温泉街の西側にあった北海道教員保養所であった。排菌がひどかったため、まず重症者専用の棟に入所することになった。重症者専用棟に入所中、陽子は多くの入寮者の死を見送る経験をしたが、幸い治療の効果が出て約1年で排菌は止まった 。北海道教員保養所での体験によって、陽子はたまたま自分は生き延びることが出来ただけであって、人生とは惨憺たるものであり、だからこそ「余生」を悔いなく充実して生きたいと願うようになった。その一方で療養所生活中、併設の図書室で勉強をしたり、恋人が出来たり、軽症者の棟に移動後には友人や恋人と温泉街の洋食屋に外出するなど、陽子は療養所生活を満喫した。 北海道教員保養所生活2年目の1951年、陽子は短歌を詠み始め、短歌の師匠で後に夫となる野原水嶺に出会うことになる。療養生活中の陽子が最初に参加したのは俳句会であったが、俳句会の先生から作風が短歌向きであると指摘され、更に交際中の恋人も短歌会に入っていたためすぐに短歌へと転向した。1949年、北海道教員保養所に「みずうみ短歌会」が結成されており、潮音系の「新墾」を主宰していた小田観螢や、「新墾」の選者を務めていた野原水嶺らの指導を受けていた。陽子は「みずうみ短歌会」に加入して歌作に励むようになり、やがて恋人から野原水嶺を紹介され、「新墾」に加入することになった。 野原水嶺に師事するようになった陽子は、詠んだ歌を頻繁に水嶺に送り始めた。指導熱心な水嶺は送られた歌に○×をつけてすぐに送り返し、そのような水嶺に陽子は憧れを抱くようになっていく。
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