作曲の経緯と進展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 02:59 UTC 版)
1900年に、ウィーン楽友協会主催の作曲コンクールへの応募作品として構想・着手された。恩師で親友のツェムリンスキーに助言と講評を求めたところ、ツェムリンスキーは作品の価値を認めたが「あまりに独創的なので、入賞することはできないだろう」との感想を洩らしたと伝えられる。第1部と第2部、第3部の大部分を1900年3月に、残りは1901年3月にショートスコアによる作曲を終えたが、最終的にオーケストレーションを終えたのは、1911年になってからであった。オーケストレーションの完成に10年かかっているのは、シェーンベルクが生活苦からさまざまな副業に追われて、本作の完成になかなか専念できなかったためである。作曲中の1910年にはリヒャルト・シュトラウスがスコアを見て関心を寄せ、副業に追われていたシェーンベルクのために、リスト賞の賞金を入手してあげたり、シュテルン音楽院の講師に推薦するなど、作曲に専念出来るよう援助した。第1部と第2部以降との間で管弦楽法の練度に差が見られるが、シェーンベルクはあえて第1部に手を入れることはしなかった。ちなみに1911年にシェーンベルクはすでに「無調の時代」に踏み込んでおり、急進的な『6つのピアノ曲』作品11を作曲している。 シェーンベルク初期の作風を集大成した作品となっており、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウス、マーラーに大きく影響された、官能的な後期ロマン派様式を示している。一方で、第1部の管弦楽法についてはしばしば、フランス印象主義音楽、とりわけ同時期のラヴェルの手法に極めて近いことが指摘されている。また、曲全体の構成やテーマは、シェーンベルクが私淑したグスタフ・マーラーの大曲『嘆きの歌』からの影響が指摘できる。 世界初演はフランツ・シュレーカーの指揮により、1913年2月23日にウィーンにおいて行われた。リハーサルでホルン奏者が席を蹴って演奏を拒否したとも伝えられたが、シェーンベルクの作品には珍しく、聴衆からも評論家からも支持され、非常な成功を収めた。しかし、すでに新しい音楽語法を探究していたシェーンベルクは、後に「この作品が聴衆に受けることは分かっていた」と回想しただけで、知られている限りでは特にその成功を喜んでいた節は見受けられない。最初の録音はレオポルド・ストコフスキーによって1932年によって行われた。日本初演は、1967年6月15日、若杉弘指揮、読売日本交響楽団他による。2014年9月、オランダ国立歌劇場はオペラとして上演した(演出:ピエール・アウディ)。
※この「作曲の経緯と進展」の解説は、「グレの歌」の解説の一部です。
「作曲の経緯と進展」を含む「グレの歌」の記事については、「グレの歌」の概要を参照ください。
- 作曲の経緯と進展のページへのリンク