作曲の経緯と途絶、ピアノ協奏曲第3番
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「交響曲第7番 (チャイコフスキー)」の記事における「作曲の経緯と途絶、ピアノ協奏曲第3番」の解説
「ピアノ協奏曲第3番 (チャイコフスキー)」も参照 1889年、チャイコフスキーは交響曲第5番の次作となる交響曲の作曲にとりかかった。チャイコフスキーはこの交響曲について「この交響曲の(略)究極の本質は、人生である。第1楽章は、仕事に対する衝動や情熱、それに自信。短くしなければならない(挫折の結果としての最後の死)。第2楽章は愛、第3楽章は落胆、第4楽章は死(やはり短く)。」と述べている。しかし、チャイコフスキーはこれを作曲途上で放棄し、ピアノ協奏曲として生まれ変わらせることにした。完成以前にチャイコフスキーは死去したため、結局のところ作曲者が完成させることのできたのは第1楽章「アレグロ・ブリランテ」のみであった。それが死後に遺作として出版されたものがピアノ協奏曲第3番作品75である。
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