作曲の経緯と顚末とは? わかりやすく解説

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作曲の経緯と顚末

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 15:57 UTC 版)

地方長官 (交響的バラード)」の記事における「作曲の経緯と顚末」の解説

1890年9月作曲始めスケッチ完成後の10月管弦楽配置着手するが、諸々所用追われる間に1年越し脱稿初演となってしまう。当時チャイコフスキーは、最後の歌劇《イオランタ》の仕上げ精力的に取り組んでおり、またアメリカ合衆国へ演奏旅行もあった。 モスクワ初演一説にはペテルブルク初演)はチャイコフスキー自身指揮のもと、1891年11月18日アレクサンドル・ジロティ主催演奏会にて行われた最初演奏9月でマイダノヴォで行われたと言われる)。完成時出来栄え満足していたチャイコフスキーであったが、初演時には作品そのもの我慢ならなくなってしまう。初演迎える前ですら、よく言って凡作であると決め付けており、総譜破毀したいと仄めかしていた。初演終えるとチャイコフスキーは、「こんな屑は書くべきではなかった」と告げ初演翌日良からぬ前言実行移したしかしながらパート譜はジロティによって回収保管され総譜作曲者没後パート譜から復元された。ちなみにジロティはたびたび楽譜出版ユルゲンソンを介してチャイコフスキーより、パート譜破棄するように迫られていた。 後にチャイコフスキーは、ユルゲンソン次のように書き送っている。「《地方長官》のことは残念に思ってはいません。これは当然の報い受けていますし。少しも悔しくないのです。こいつが自分評価を落とすだろうと心底から信じていますので。(中略この手代物がまた出来上がったら、私は切れ切れに引き裂くか、もしくはすっかり作曲諦めてしまいましょう。すべてにカタがついてしまったら、何があっても絶対に、アントン・グリゴリエーヴィチのようなお目汚し続けたくはないものです。」 また作曲者1892年頃に、本作中間部素材使って熱い告白仏語:Aveu passhioné)』というピアノ作品作っている。

※この「作曲の経緯と顚末」の解説は、「地方長官 (交響的バラード)」の解説の一部です。
「作曲の経緯と顚末」を含む「地方長官 (交響的バラード)」の記事については、「地方長官 (交響的バラード)」の概要を参照ください。

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