作曲コンクールへの応募
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「須賀田礒太郎」の記事における「作曲コンクールへの応募」の解説
様々な作曲技法を学んだ須賀田は、交響詩「横浜」(1928)、管弦楽曲「春のおとずれ」(1931)、交響詩「桜」(1933) などフランス印象派風の習作を経て、作曲コンクールへの応募を開始した。1936年、宮内省式部職楽部主催の管弦楽曲募集コンクールに「日本華麗絵巻」作品一が入選。日本放送協会主催の「祝祭典用管弦楽曲懸賞」に「祭典前奏曲」作品二が4位に入選、翌年の元旦にラジオ放送された。また黎明作曲家同盟主催日本現代作品発表会にも「前奏曲と遁走曲」作品三が選ばれた。1938年(昭和13年)、新交響楽団 (現NHK交響楽団) 主催第2回邦人作品コンクールに「交響的舞曲」作品四 (三管編成/演奏時間6分) が小船幸次郎「祭りの頃」、山田和男「若者のうたへる歌」、平尾貴四男「隅田川」、荻原利次「日本風舞曲」とともに入選。2月25日、ヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮する新交響楽団により初演された。「交響的舞曲」は同年6月、ローマ、ワルシャワ、ヘルシンキにおいて、小船幸次郎の指揮により伊福部昭の「日本狂詩曲」等と共に演奏された。受賞にあたって、須賀田は次のように語っている。 自分はまだまだ後期ロマン派の技法を充分習得しているとは言えず、この作品の作曲にあたっては試行錯誤を重ねたが、現時点では最善を尽したつもりである。真に日本の民族的な真情を芸術作品として昇華させるには、これからは後期ロマン派の手法を身につける事が不可欠であると自分は考える。
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