伊勢道路以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/08 16:33 UTC 版)
「三重県道32号伊勢磯部線」の記事における「伊勢道路以前」の解説
志摩市磯部町恵利原から標高約240mの逢坂峠を越え、伊勢神宮神域の島路山を流れる島路川に沿って伊勢市宇治館町に至る道は、江戸時代には逢坂越えと呼ばれていた。志摩半島を縦断するこの道は旧志摩国から旧伊勢国への最短距離になる道であったが、磯部町側は急勾配であり、九十九折りの道の形状から「ナナマガリ」、同じような景色が続き狐に化かされたように感じることから「狐坂」とも呼ばれた。明治中ごろまでは志摩地方で水揚された魚類を伊勢市河崎町の市場まで担い棒を用いて徒歩で運ぶ「徒荷持(かちにもち)」で賑わったが、一人で一度に運べる量が限られるだけでなく、早朝に河崎町に到着するには磯部を夕方に出て、山道を徹夜で歩く必要があった。 1891年(明治24年)から1893年(明治26年)にかけて逢坂峠を約30m切り崩す大改修が行なわれ、大八車が通行可能となり、県道一等道路山田波切線に指定され、「磯部街道」と呼ばれるようになった。この道は人力車も通行するようになり、逢坂峠付近には大八車や人力車を押す手伝いをする業者が現れ、人力による大量輸送が始まった。この1893年(明治26年)は伊勢市西部を横切る宮川手前の宮川駅まで参宮鉄道(のちの参宮線)が開通した年であり、平野部では人力輸送が衰退し始めた時期と言える。 1903年(明治36年)に逢坂峠に隧道を作る計画が立てられ調査が開始されたが、1904年(明治37年)2月6日日露戦争が勃発し計画が頓挫してしまう。 1911年(明治44年)に参宮線が鳥羽駅まで延長されてからは、磯部から伊勢市までは、鳥羽駅から山田駅(現在の伊勢市駅)まで参宮鉄道を利用して鳥羽市を経由することが一般化した。1914年(大正3年)には志摩市と鳥羽市の境にある五知峠の開削工事が行なわれ鳥羽道(伊勢市-鳥羽市間の街道も鳥羽道と呼ばれた)と呼ばれるようになり、1919年(大正8年)には磯部村の作田久治らによる志摩自動車会社が鵜方-鳥羽間の乗合自動車運行が始まった。1929年(昭和4年)に志摩電気鉄道(現在の近鉄志摩線)が鳥羽 - 賢島間を結んだため、磯部道は寂れることになった。1935年(昭和10年)に再び隧道の計画が立てられたが、今度は1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、計画は再び頓挫した。 第二次世界大戦が終戦し、1949年(昭和24年)に磯部町から鳥羽市まで国道167号が整備された。
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