任意性・信用性に関する審理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:35 UTC 版)
「みどり荘事件」の記事における「任意性・信用性に関する審理」の解説
T・H両警部補に対する証人尋問は、1983年(昭和58年)6月20日の第14回公判と同年7月4日の第15回公判で行われた。T警部補によれば、「自白」した当日1982年(昭和57年)1月18日の取り調べの状況は、「取り調べを始めて1時間ほど経ったとき、輿掛が母や姉に会いたいと言い出した。それに対して、分かったが、自分の覚えていることを話しなさいと応じ、何度もどこから入ったのか追及したが、輿掛は何も答えなかった。しかし、どこから出たのかと聞くと、玄関から出たと答えた。記憶にあるのは台所に立っていたところからで、それ以前のことは覚えていないということだった。そして、玄関から出て自分の部屋に帰って風呂場で顔を洗ったところまで話すと、母に合わせて欲しいと涙を流し声をあげて泣き始めた」ということであった。また、指紋については、事件現場からは輿掛の指紋は検出されていないこと、そして、指紋の件は取り調べの中で輿掛に何も告げていないと証言した。 1983年(昭和58年)7月21日の第16回公判には、風邪を引いた輿掛を診察した医師が証人に呼ばれ、診察したのが輿掛の「自白」前か後かが争われた。輿掛によれば、「自白」した後の1982年(昭和57年)1月18日の午後に初めて医師に診察されたということであったが、医師は「自白」前の同年1月15日に診察したと証言し、カルテにも1月15日の21時30分に診察・投薬と記載されていた。しかし、H警部補が作成した報告書では、この日は21時35分まで取り調べを行い、そのあとに診察を依頼したとされており、また、留置人出入簿には21時35分入房と記載されていた。 1983年(昭和58年)9月1日の第17回公判では、弁護側が「自白」当時の輿掛の心身の状態を立証するとして、「自白」直後に面会した輿掛の母と長姉を出廷させた。その時の輿掛の様子について、母は「色はまっ黒というか、あんな色はないです。目はギョロギョロして、私たちがものを言っても口をパクパクさせるだけで言葉にはならなくて、涙をボロボロ流すだけでした。ほおはこけて亡霊みたいでした」と述べ、長姉は「げっそりして疲れ果てて、私達に言うんですが、声にならなくて、あっあっという感じで、もういいわと言ったらただ泣くだけで、私達も涙がポロポロ出てきまして何も言えなかったです」と証言した。 その後、イソミタール面接を行った医師に対する尋問や3回を重ねた被告人質問などを挟んで、翌1984年(昭和59年)12月17日の第23回公判には、第3回公判で証言した102号室の住民が再び呼ばれた。ここでは弁護側は、「2階の水音を聞いただけで人が中腰で水をかぶっている音だと分かったということ」「風呂の水音を聞いたというのと同じ時間帯の205号室の住民が木のツッカケで外階段を下りるカンカンという大きな音を聞いていないこと」など、102号室の住民の証言の不自然な点を指摘した。
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