仮釈放と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 04:09 UTC 版)
「デイビッド・カーティス・スティーブンソン」の記事における「仮釈放と晩年」の解説
1941年1月7日、インディアナ州バルパライソのビデット=メッセンジャー紙は、民主党のM・クリフォード・タウンゼント知事が、スティーブンソンの仮釈放を検討していると報じた。しかし、その年には仮釈放自体が1件も承認されなかった。1950年3月23日、スティーブンソンは仮釈放されたが、6ヶ月の仮釈放期間満了前に行方をくらまし、仮釈放条件に違反したことから、同年12月15日、ミネアポリスで逮捕され、翌1951年に10年の刑を言い渡され、再び収監された。1953年には、スティーブンソンはKKKの幹部であった過去を否定し、釈放を嘆願していた。 1956年12月22日、インディアナ州外に出て行って二度と戻らないことを条件に、スティーブンソンは州当局により再び仮釈放された。スティーブンソンはインディアナ州南部のシーモアに移り、3番目の妻となるマーサ・ディッキンソンと結婚した。1962年、スティーブンソンが仮釈放条件通り、インディアナ州を離れ、二度と戻らなかったことから、夫婦は別居となった。しかし、妻マーサの提出した離婚届がブラウンズタウンのジャクソン郡地方裁判所で受理されたのは、スティーブンソンの死後、1971年のことであった。 インディアナを離れたスティーブンソンは、テネシー州ジョーンズボロに移り住み、地元新聞紙ヘラルド・アンド・トリビューンに職を得た。同地にて、前妻マーサ・ディッキンソンとの離婚が成立しないまま、スティーブンソンは4番目にして最後の妻となった、マーサ・マレー・サットンと結婚した。 1961年、70歳になったスティーブンソンは、16歳の少女に性的暴行を加えようとしたとして、ミズーリ州インディペンデンスで逮捕された。しかし、証拠不十分として不起訴となり、300ドルの罰金支払いのみで釈放され、ミズーリ州外への即時退去を命じられた。その後1966年、スティーブンソンはジョーンズボロの自宅で死去し、名誉除隊された退役軍人として、テネシー州ジョンソンシティのマウンテンホーム国立墓地に埋葬された。重大な性犯罪者、もしくは死刑を受けた者を、退役軍人省管轄の国立墓地、もしくは同省の予算で運営されている州および部族の退役軍人墓地に埋葬することを禁じる法案をアメリカ合衆国議会が成立させたのは、スティーブンソンの死後53年経った2019年のことであった。
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