仮釈放へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 16:20 UTC 版)
「弘前大教授夫人殺し事件」の記事における「仮釈放へ」の解説
那須は秋田刑務所で5年間服役し、宮城刑務所へ移監された。秋田刑務所では良好な服役態度から、社会人に準ずる扱いを受ける一級模範囚への特進を異例の早さで提案された。しかし那須は改悛の情を示すことを拒否し、特進を辞退した。宮城刑務所でも那須は謝罪を拒否し続けていたが、当時の分類課長の取り成しによって一級模範囚へと特進した。模範囚であったため仮釈放の機会は幾度も巡ってきたが、更生保護審議会の面接でも那須は犯行を否認し続けたため、仮釈放が却下されることは6回に上った。 しかし、長年の刑務作業で患った脊椎の治療を拒否されたことで獄死の恐怖が募り、服役から10年余りが経過した1962年(昭和37年)8月に末弟が水難事故死したことで那須の心境は変わった。死んでなお、人殺しの兄の祟りと罵られる弟のことを聞いた那須は、7回目の面接を更生保護審議会へ申請した。「君がやったのか」との面接官の問いに那須は「やったことを認めます」と答えたが、「自白は仮釈放のためではないか」との問いには回答しなかった。 しかし、申請は認められた。1963年(昭和38年)1月18日、那須は39歳で宮城刑務所から仮釈放された。那須が獄中で10年間貯め続けた作業賃金は、すべて滞納していた訴訟費用の支払いに消えた。
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