代理戦争に巻き込まれる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/02 01:26 UTC 版)
「バニャムレンゲ」の記事における「代理戦争に巻き込まれる」の解説
1964年は、バニャムレンゲと周辺コンゴ住民との間に決定的な軋轢を生むことになった年である。1964年初め、ルムンバ主義者が反乱をおこし、南キヴ州をその根拠地とした。彼らは南キヴ州で政治宣伝活動を行い、自分たちのシンパを集め始める。(後にAFDLのスポークスマンに就任し、ルワンダの支持でコンゴ大統領に就任したローラン=デジレ・カビラが南キヴから北カタンガに渡る地域に派遣された。)しかし、バニャムレンゲのほとんどの者は彼らの主張には共感しなかった。それは、彼らの主張に従うと、自分たちの所有物である家畜をベンベ(Bembe、フレロと共にバニャムレンゲ居住域の周辺部族の1つ)にただでやることにしかつながらないとわかっていたからである。少数のバニャムレンゲの若者はこの反乱に加わったが、主として、そうしないと家族を守れないから、という消極的な理由からだった。 一時的ではあったが、キューバは部隊を送って反政府軍の支援を行い、やがてこの反乱はキューバ対アメリカ合衆国の代理戦争の様相を帯び始める。チェ・ゲバラが参加した紛争がこのルムンバ主義者の反乱である。(ゲバラは1965年4月にキューバを発ち、プラハ、カイロ、ダル・エス・サラーム、キゴマを経由して東部コンゴにやってきた。)1966年、この反乱はルジジ(Ruzizi)平野とウヴィラ(Uvira)でジャン・シュラム(Jean Schramm})の傭兵部隊と政府軍に敗退し、オー高原(Haut Plateau)まで退却した。反乱軍の多くはフレロ、ベンベ、ヴィラ族出身の者だったが、撤退した地域でバニャムレンゲに税金をかける、あるいは家畜を略奪した。反乱軍は毛沢東主義を信奉していたが、彼らは、家畜を持っているものは裕福な者で、したがってブルジョアであるという論理を振りかざして、バニャムレンゲから収奪した。 数千人のバニャムレンゲがタンガニーカ湖岸まで逃げたが、暑い気候になじめずマラリアや栄養失調で多くの者が亡くなった。困ったバニャムレンゲは、ザイール国軍(FAZ, Forces Arme'es Zairoises)に助けを求めた。また、少数ながら反乱軍に参加したバニャムレンゲの若者が、バニャムレンゲが逃げられるよう回廊を作るためにザイール国軍に協力したことから、反乱軍はバニャムレンゲを裏切り者と見なした。この頃からルムンバ主義者たちの反乱は、共産革命から、反キンシャサ政府を掲げる、カタンガ州独立の戦争に変質した。裏切り者とみなされて、バニャムレンゲの村は反乱軍から攻撃され、数十人のバニャムレンゲが教会に閉じ込められて虐殺された。これに対抗して数百人のバニャムレンゲがザイール軍に入隊、反乱軍をオー高原から撤退させた。この地域から反乱軍に参加した者の多数は、バニャムレンゲの隣人であるベンベだったことから、その緊張の度合いは高くないものの、両者の間に怨嗟の感情がこの後も長いこと続いた。同様にバニャムレンゲも、カビラ軍によって家畜を略奪されてことを後年になっても恨み続けた。バニャムレンゲは、カビラに「牛の乳首を切る奴」というあだ名をつけた。 この事件後、政治的状況がバニャムレンゲに有利になったため、1部はより南方のカタンガ州北部のモバ(Moba)、カレミエ(Kalemie)まで進出、また、ルジジ平野へ下り、そこでルンディ族に混じって首長になる者も現れ、ブカヴやウヴィラで働く者も出てきた。 カビラ軍による戦争は基本的には南キブ州にとどまり北キヴ州へ波及することはなかったが、バニャルワンダを処罰したり、不法に土地を取り上げるための口実として利用された。このため1965年には限定的ながら、北キヴ州でも暴動が発生した。
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