人間が係わる歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 22:57 UTC 版)
山頂の東側(伊那側・宮田村)にある伊那駒ヶ岳神社 山頂の西側(木曽側・木曽町)にある木曽駒ヶ岳神社 1338年(暦応元年):高遠家親が山道を開設し、八社の大神を祭った。 1532年(天文元年):上松町の神官の徳原長大夫春安が頂上に駒ヶ岳神社(保食大神)を建造した。江戸時代には、木曽側の上松町から信仰目的で盛んに登られている。現在も登山道にはその建造物が多く残り、頂上には木曽側と伊那側にそれぞれの駒ヶ岳神社がある。 1784年(天明4年)7月:坂本天山ら総勢114人が宮田口から登頂し、伊那前岳の勅銘石(ろくめいせき)に漢詩を刻印し現存している。[要出典] 1891年(明治24年):イギリス人のウォルター・ウェストンが、上松側から登頂して伊那側へ下った。 1913年(大正2年):長野県中箕輪高等小学校(現在の長野県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の集団宿泊的行事として実施された登山において、将棊頭山付近で遭難事故が発生し、校長と生徒10人が死亡した。現在の上伊那地区の中学校では、当時の教師たちの遺志を尊重し、また慰霊の意味もこめて、学校行事として集団登山を行っている。詳細は「木曽駒ヶ岳大量遭難事故」を参照 第二次世界大戦前:深田久弥が2度登頂。 1951年(昭和26年)11月22日:中央アルプス県立自然公園(後の中央アルプス国定公園)に指定された。 1967年(昭和42年)7月:駒ヶ岳ロープウェイ開通に伴い、ロープウェイの終点の千畳敷や木曽駒ヶ岳に多くの人が訪れるようになった。 1977年(昭和52年)3月31日:将棊頭山付近を縦走していた東京都立航空工業高等専門学校の山岳部員7人が雪崩に巻き込まれて死亡。後に遺族が引率していた顧問の教諭と東京都を訴えた。
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