交通制度と旅とは? わかりやすく解説

交通制度と旅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)

「唐」の記事における「交通制度と旅」の解説

交通については、すでに整備されていた馳道利用しさらなる補修拡張行った。そのため、長安中心とした各地方につながる道路水路整備されていった道路には、30里(約17km)ごとに駅站駅館公営の宿)が置かれ公文書を運ぶ政府使者地方赴任し帰ってくる官僚利用した駅站近くには、往々において民間の宿が存在した。宿の名称の最後には、『駅』、『館』、『店』とつくことが多かった。唐全土には1,639もの駅站存在し水駅260水陸駅が86か所設置されていた。駅站利用できる政府関係者は、食糧運送宿泊無料であったまた、道路五里ごとに『里隔』という標識置かれ十里ごとに別の標識立てられた。幹線道路沿いには多数店舗建ち並び交通大い発達した当時貴族官僚外出には車を使わず、馬に乗り牛車乗るのは女性多かった牛車また、運送利用された。 隋代からの駅伝制度発達させ、駅站整備され役人宿泊や馬の確保使われた。一等の駅は馬75頭が置かれていた。関津制度によって、水陸要所関所置かれ旅人や荷を検分して、商人から税を徴収したまた、商業のための往来するために、商人は「過所」という通行証明書を、中央では尚書省地方では州で発行してもらい、所持する必要があった。紛失した場合審査の上再発行となった過所許され経路通れば遠距離でも行くことができたが、不正に通関しようとしたものは罰を受けたまた、安史の乱以降は、人の動き活発化して、藩鎮の州や県で「公験」という通行証明書も発行された。唐代関津制度は、賦役逃れ誘拐外敵潜入を防ぐために厳格であった唐代後半には、軍事伝達余りに頻繁となり、駅站増大して駅伝制度崩れていった。 大運河開通後、水路重要性大い増した水運造船発達により、大規模な輸送可能になり、運河度重なる改善もあわさって、大量食料運搬され長安食料不足解消した海運また、造船技術の向上により発達していった。 幹線道路沿いは、民家商店多く民間旅人でも食糧に不足はしなかった。民営旅舎逆旅呼ばれる旅館多数存在した9世紀唐代旅行した円仁の『入唐求法巡礼行記』によると、円仁長期間旅行をほとんど危険もなく行っている。 宿屋寝具持参自炊原則であった相部屋多くその時は、寝床だけを借りることになる。寝床大きいのを牀、小さいのをといった。使用しない時は寝床は壁に立てていたが、宿では常時設置していたところもあった。食店という食堂兼ねた宿も存在したが、安宿自炊一般的で、飯だけはつける宿もあった。旅行遠距離なものが多く長期間に渡るため、馬車や馬、ロバラクダで荷を運ぶことが多かった相部屋には炉があり、部屋煮炊き行い、外から食糧や酒も持参できた。宿屋中に馬小屋があることもあった。宿は貸し切りもあり、小房という個室もある宿も存在した

※この「交通制度と旅」の解説は、「唐」の解説の一部です。
「交通制度と旅」を含む「唐」の記事については、「唐」の概要を参照ください。

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