交渉再開と条約の締結
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1882年8月26日の大院君拉致事件ののち、高宗・閔氏の政権が復活し、済物浦の花房全権公使のもとへ朝鮮政府から謝罪文が送られた。花房はこれを受け入れ、軍艦金剛艦上での交渉再開を約した。ただし、高宗・閔氏の政権は外交的には清国の馬建忠に依存せざるをえなかった。8月28日夜、朝鮮全権大臣李裕元、副官金宏集(のちの金弘集)らは済物浦に停泊中の日本軍艦金剛をおとずれ、交渉をはじめた。交渉は、この日と翌日にかけて集中的におこなわれ、1882年8月30日、済物浦条約を調印した。このような短時間で交渉が成立したのは馬建忠が日朝双方に事前に根回しをしていたからである。 軍乱を起こした犯人・責任者の処罰、日本人官吏被害者の慰霊、被害遺族・負傷者への見舞金支給、朝鮮政府による公式謝罪、日本外交官の内地旅行権などについては、日本側原案がほぼ承認を得た。開港場遊歩地域の拡大(内地通商権)に関しては、朝鮮側の希望を若干容れて修正された。朝鮮側が最も反対していた50万円の賠償金と公使館警備のために朝鮮に軍隊一個大隊を駐留させる権利については、花房公使の強硬な姿勢により、文言の修正と但し書きの挿入程度にとどまり、基本的に日本側の要求が容認された。全体的には日本側の要求がほぼ受け入れられた内容となった。 済物浦条約の締結に際して清国はそのなかみについて特に深く介入したわけではなかった。むしろ、大院君を朝鮮王宮から連れ去ったことによって日本側に優位な交渉条件を準備したともいえる。このとき清国は、ベトナムをめぐってフランスとの緊張が強いられていたので、日本と徹底して事を構えるつもりはなかった。日本もまた、外務卿井上馨の基本方針は対清協調、対朝親和というものであり、在野の知識人もまた日清朝の三国提携論が優勢であった。 花房公使は調印後の9月2日、井上外務卿あてに「大満足にまで条約を締結せり」と報告の電報を打電した。
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