五町組における親町と枝町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 18:15 UTC 版)
「能代役七夕」の記事における「五町組における親町と枝町」の解説
後世の役七夕では、町組を単位として祭りを催行する当番が輪番で巡っているが、このローテーションは江戸時代の五町組に起源をもつものであり、清助町組、大町組、上町組、万町(萬町)組は、江戸時代からの名前をそのまま引き継ぐものである(柳町組は旧来の後町組に替わって1960年(昭和35年)に正式に成立したもの。後述)。そして、それぞれの町は祭りを催行するにあたって有志で七夕灯籠の運行組織である「若」を作り、町の略称と組み合わせた名前で呼んでいる(例:大町 - 大若、清助町 - 清若、等)。五町組の編成は以下の通りである。 役七夕における五町組の編成組名親町枝町「若」の名前大町組 大町 富町、下川反町、富町新丁 大若、富若、下川若、富新若 上町組 上町 畠町、畠町新丁、東町 上若、畠若、畠新若、東若 万町組(萬町組) 万町 中町、上川反町、幸町、羽立町 万若(萬若)、中若、上川若、幸若、羽立若 清助町組 清助町 馬喰町、御指南町 清若、馬若、御若 柳町組 柳町 新町、出戸町、本町、新柳町、柳町新道、住吉町、栄町、後町 柳若、新若、出若、本若、新柳若、柳新若、住若、栄若、後若 それぞれの町組は、親分にあたる親町(親丁)と呼ばれる町と、付属する枝町で構成されるのは前述した通りだが、枝町にさらに新たな町がつくことがある。例として上町組所属の畠町新丁は、上町の枝町ではなく、上町の枝町である畠町の枝町である。この場合畠町新丁は上町から見て孫にあたるが、子である畠町と同様枝町としてひとまとめにされている。なお、これらの町名はあくまで七夕への参加にあたっての町名であり、現在の行政上の町名と合致しないことに留意する必要がある(例として、後町は現在の町名では大手町であり、また下川反町や羽立町など町名としては現存しない)。役七夕の催行には五町組制度が深く関わっているが、今日では五町組とは役七夕や日吉神社御神幸祭(丁山祭り)といった祭礼においてのみ伝統的な枠組みとして現れるものであり、現在の行政上の機構や住民自治の仕組みと別個の存在である。 なお、役七夕の特徴として、祭りを催行するのはその年の当番にあたる一組だけであり、それ以外の四組は観客の側である。さらに、祭りの当番年にあっても、五町組の親町が必ず祭りの大丁(祭りの当番町として同じ組内の各町を統括する役割を持つ。詳細は後述)を務める訳でなく、各町組を構成する町々の間であらかじめ大丁の順番が取り決められている。同じく上町組(上町、畠町、畠町新丁、東町の4町で構成)で説明すると、上町組の当番が5年に1回であり、さらに上町組を構成する4つの町が順番に大丁を務めるため、個々の町に大丁の順番が回るのは20年に1回ということになる。当番年の町組の中で大丁以外の町は、加勢丁として大丁をサポートするため、4町で構成される上町組の場合、大丁1、加勢丁3の体制となる。このような町組の中での大丁の順番を決める取り決めがなされるようになったのは昭和戦後になってからで、上町組では1947年(昭和22年)のことである。また、古くは「親しみ丁」と言って当番年以外の町組からも加勢丁が参加して七夕灯籠を出すことがあったが、現在はどの町組も組外の町からの加勢を受けていない。 ただし、以上で述べた七夕灯籠の参加数はあくまで原則論であり、町内の世帯数減少を背景として枝町が合同で七夕灯籠を1基だけ出すことも珍しくない。例として万町組では、1973年(昭和48年)以来、親町である万町のみが大丁を行い、枝町である中町、上川反町、幸町、羽立町が合同で灯籠を出して、2基体制での運行となっている。さらに近年は町内の高齢化や人口減少を背景として、清助町組では加勢灯籠が出ない事もある。
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