五大ファミリーボス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 17:47 UTC 版)
「ジョゼフ・プロファチ」の記事における「五大ファミリーボス」の解説
1930年のカステランマレーゼ戦争ではサルヴァトーレ・マランツァーノ側を支持したが、戦争にはほとんど関わらなかった(ボナンノは後年自伝でプロファチは中立だったとした)。ジョー・マッセリアに対抗できる力を持ちあわせなかったプロファチは中立を装ったが、マッセリアが劣勢になるとマランツァーノのアジトを訪れ、マッセリアを罵倒したという。1931年、マッセリアが殺された後のマランツァーノによる五大ファミリーの編成と、ラッキー・ルチアーノによるその再編のいずれにおいても独立したファミリーのボスと認められた。マリオッコを副ボスに、弟2人を一家の幹部や相談役にするなど身の回りを血族で固めた。 1937年、ニューアーク(ニュージャージー)のガスパール・ダミコの縄張りにニューヨークマフィアが侵攻し、ダミコの縄張りがニューヨーク勢で分割されたが、これを主導したのが一説にプロファチとされる(1930年代初め、プロファチはニューアークのマフィアボスだったマランツァーノ派のステファノ・バダミの後釜に同郷ヴィッラバーテ出身のダミコを後押しした)。 戦後、デトロイトのジョー・ゼリッリ(英語版)やマイアミのサント・トラフィカンテ・ジュニアと提携した。1946年12月、ギャングの大集会のハバナ会議に参加した。 1946年、プロファチの故郷ヴィッラバーテの名門マフィア、グレコ一家が2派閥に分かれて内輪もめを起こし、ジアルディニ(グレコ)派とチアクッリ派が殺し合いの復讐合戦に突入した。地元ボスの1人アントニオ・コットーネ(元プロファチ一家)がニューヨークにコンタクトし、プロファチが両者の仲裁に入った。 1953年、200万ドル以上の脱税容疑で司法省から告発された。1927年に取得していた市民権は、1954年司法省に無効宣告された(1960年回復)。1956年、ボナンノと姻戚関係を結び連携を強化した。 1957年、ニューヨーク税関でヘロイン密輸が発覚するが(シチリア産オレンジの木箱にオレンジをくりぬいて中にヘロインが詰められていた)、訴追を免れた。1959年11月、全米マフィアの参集したアパラチン会議で拘束された。
※この「五大ファミリーボス」の解説は、「ジョゼフ・プロファチ」の解説の一部です。
「五大ファミリーボス」を含む「ジョゼフ・プロファチ」の記事については、「ジョゼフ・プロファチ」の概要を参照ください。
- 五大ファミリーボスのページへのリンク