ハバナ会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/07 15:28 UTC 版)
1946年2月、ルチアーノがイタリアに移送され、再入国が絶望的になると正式に一家のボスの座を継いだ。同じ頃、ジェノヴェーゼがイタリアから連れ戻され、昔の殺人で裁判にかけられていたが、1946年6月に釈放され、組織に復帰した。コステロはジェノヴェーゼの復帰を歓迎し、当座の資金として2万ドルを貸したが、ボスの座も副ボスの座も渡さなかった。ジェノヴェーゼは副ボスの座を剥ぎ取られたが、一家の幹部や全米のマフィアから支持されるコステロと表立って争わず、水面下で幹部の切り崩しにかかった。 1946年12月、アドニス・ランスキーらとキューバにアメリカのギャングを一堂に集め、イタリアに帰還したルチアーノを招いてハバナ会議を主催した。一家のテリトリーはニュージャージーやコネチカットまで及び、賭博・高利貸しから金融投資まで多岐のビジネスに進出した。コステロはファミリーの構成員に対し強い締め付けはせず、部下は自由に自分のビジネスをし、ファミリー全体が潤っていた。当局は、コステロが頻繁に会っている人物から上下関係を判断できず、従って犯罪組織での立場もわからなかった。ニューヨーク市警の知り得た情報は、賭博業を営み、店のオペレーターと付き合いが長いといった事だけだった。 1946年12月に一家のマイク・コッポラが麻薬で捕まった時、FBN(連邦麻薬捜査局)が、「ハーレム麻薬シンジケート」を背後から操っているのがコステロだと誌上で名指しして非難した。コステロは異例の記者会見を開いて全くの事実無根と反論し、「麻薬に関わる者は最低の人間である」と麻薬犯罪者への抗議声明文を読み上げた。この時のFBNは、コステロを「ニューヨークの5つの犯罪グループの中で最も大きいグループのボス」とした。 1949年1月、救世軍基金の慈善プログラムに参加した。裏社会の繋がりの噂が絶えなかった為イメージを改善しようと、自身のクラブ「コパコバーナ」で盛大な慈善パーティを開いた。費用は全部コステロ持ちで、市政の大物が多数招待されたこのパーティはマスコミにすっぱ抜かれ、政界とギャングの結びつきを象徴する出来事としてネガティブな注目を浴びた(エピソード参照)。このパーティにはジェノヴェーゼも招待された。 1949年11月にタイム誌の表紙を飾り、本人の意に反して全国の有名人になった。
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