中城ふみ子との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 00:05 UTC 版)
大塚陽子と中城ふみ子の両者に短歌研究の読者五十首公募への応募を勧めたのは野原水嶺であったが、中城ふみ子が水嶺の推敲を拒否したのに対し、大塚陽子は素直に推敲を受け入れた。中城は水嶺の新人育成の手腕を評価しながらも嫌っており、大塚陽子が水嶺の直弟子であり、慕ってくるので大変に引き立てていると語っている。 読者五十首公募の審査結果は、短歌研究社の第一次選考の段階では3人の審査員全員がA評価を出したのは大塚陽子のみで、中城ふみ子は3人ともB評価であった。しかし中井英夫が改めて作品を読み直した結果、中城の作が大変に優れているとの確証を得たため特選となった。中井は中城に手紙で「中城さんと大塚陽子さんのお二人の御歌だけは目立って鮮やかな作」と書き記しており、当初、陽子が一位であった選考過程についても明かしている。 前述のように中城ふみ子が会いたがっているとの連絡を中城の歌仲間から連絡を受けたことがきっかけとなって、大塚陽子は中城の入院病床に入り浸るようになったが、中城は陽子に対して選考経過のことを全く話さなかった。後にこのことを知った陽子は、少しは自分のことをライバル視していたのではないかと推測している。歌人同士、中城ふみ子と大塚陽子はよくお互いに歌を見せ合い、中城から厳しい批評をされていた。また中城ふみ子は大塚陽子の若さと健康に悔しがり、大塚陽子は中城ふみ子の才能と魅力に悔しがり、お互いに悔しがった後に良い歌が詠めると笑いあっていた。 大塚陽子が「遠花火」で現代短歌女流賞を受賞した後、かつての中城ふみ子と大塚陽子との関わり合いに興味が集まり、中城ふみ子に比べて大塚陽子は不遇であったと言われた。またこれほどの実力がある歌人が中央に知られていなかったこと自体が不思議であるとの意見も出た。しかし大塚陽子自身は、命を引き換えにして優れた歌を詠んだ中城ふみ子に対して、ひとりの男性と添い遂げることが女としての幸せであると考えていた。 その分、大塚陽子自体、中城ふみ子のように全身全霊で短歌を詠むことはなく、短歌に対する姿勢自体に甘さがあると考えていた。中城ふみ子との経緯のきっかけとなった読者五十首公募についても、自分の短歌はオーソドックスな作風で、中城ふみ子のように時代を切り開く力は無かったので、中城が特選となったことは当然だと見なしていた。
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