中国料理、朝鮮料理の普及とは? わかりやすく解説

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中国料理、朝鮮料理の普及

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 05:22 UTC 版)

日本の獣肉食の歴史」の記事における「中国料理、朝鮮料理の普及」の解説

中国人獣肉食べていることは江戸時代から知られており「遣唐使少しは牛も喰ひならい」「 日本の牛は畳のうへで死に」といった川柳作られていた。長崎卓袱料理江戸上方でも流行したが、これらの紹介の書には、中国人は鹿豕を食べることに言及しつつ、取捨選択が可能であることを断る記述見られる明治になって開国すると、長崎加えて横浜神戸中華街(南京町)が形成されたが、「支那うどん」「支那(南京)そば」と呼ばれたちゃんぽんラーメン除けば日本人の間に中国料理は広まらず、1906年明治39年時点東京にあった中国料理店はわずか2軒であったいずれも貿易商高級役人利用する高級料理店であった。もっとも1906年明治39年)には東京成女学校毎週中国料理店から料理人招いて中国語での料理講習会行っている。明治期刊行され西洋料理書が約130冊であるのに対し中国料理書はわずか7冊であったが、明治末年には肉料理紹介されるようになった大正時代になって日本大陸進出が進むと、中国からも民間人がやってきて一般向けの中華料理店開かれることになった中国料理豚肉普及と共に家庭料理にも取り入れられた。1920年大正9年)頃からは新聞でも中国料理紹介記事増えた1925年大正14年)から始まったラジオ料理でも青椒肉絲などが時々紹介された。 朝鮮料理普及はこれよりもやや遅く李人稙1905年明治38年)に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であり、朝鮮帰国するまでの短期間のものであった韓国併合後には日本に来る朝鮮人増加し1938年昭和13年)の東京市には朝鮮料理店が37軒できていた。そこで出されたのは戦後焼肉中心とするものではなく韓定食などの伝統朝鮮料理であった

※この「中国料理、朝鮮料理の普及」の解説は、「日本の獣肉食の歴史」の解説の一部です。
「中国料理、朝鮮料理の普及」を含む「日本の獣肉食の歴史」の記事については、「日本の獣肉食の歴史」の概要を参照ください。

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