中国文献に見える日本の王の称号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 07:38 UTC 版)
「大王 (ヤマト王権)」の記事における「中国文献に見える日本の王の称号」の解説
本来、「王」とは中国本土において「中原の主」を指したものである。周代には天下を統治する唯一の天子として王の称号があったが、華北の黄河文明諸国の風下に立つことを潔しとしない揚子江文明圏の大国には楚、呉、越のように君主が王を名乗るものもあった。戦国時代に入りしばらくすると、華北でも周王の臣下である諸侯のうち領域国家化を達成した大国の君主が周王に取って代わる天下で唯一の「王」を自称し、王が乱立した。その後、中華世界を初めて統一した(紀元前221年)秦王嬴政(始皇帝)は、価値を落とした「王」に代わり「皇帝」を使用した。その後、秦が成立する(紀元前221年)と、王号は皇帝の臣下へ与えられる称号(諸侯王)、あるいは皇帝の天下の権威を認めて従属姿勢を示す周辺国家の長に贈る称号として定着した(故に例えば漢の対等国であった匈奴の君主は単于であり王ではない)。 日本に関連する王号の初出は、漢の光武帝が57年に奴国の王に賜綬した金印に彫られている「漢委奴国王」である。 次いで、『後漢書』安帝紀の永初元年(107年)の記事に初めて「倭国王」の語が見える。安帝紀に「倭国王帥升等」とあるように、倭国王を地域の小国家ではなく地域国家連合の首長としての「倭国の王」と考えると、これは倭国の成立を示すものである。 それから、やや下った時代の卑弥呼(死去は240年 - 249年)も、魏によって倭国(都は邪馬台国)の統一女王と認知される。この卑弥呼の政権は、最初期の大和王権とする学説がある(異論もある)。
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