中国の薬学
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詳細は「本草学」、「錬丹術」、「中国の科学技術史」、「中国医学」、および「zh:中药」を参照 中国においては、伝説上の王である神農が薬となる植物を判別したとされる。続いて殷の料理人であった伊尹がその料理の技術を工夫して湯液(煎じ薬)を作り、更にそれを政治にも応用したと伝えられている(『史記』・『漢書』・『呂氏春秋』など)。これらは伝説であるが、食事と医療の結びつける伝承は後世における薬膳に通じる側面がある。『漢書』郊祀志には前漢の建始2年(紀元前31年)に「本草待詔」という官職が設置されたと記されており、この時代には「本草」という言葉が生じていた。遅くても後漢時代には中国最古の本草学の書である『神農本草経』が編纂され、後に梁の陶弘景によって注釈書(『本草経集注』)が書かれて以後の本草学の基本とされた。また、宋の雷斅が炮製(薬剤の加工・調製技術)についてまとめた『雷公炮炙論』を著し、またつなぎにあたる煉合剤などにも工夫が加えられた。『本草経集注』やそれに続く『新修本草』は日本にも伝来した。以後も中国の本草学は漢方薬及び方剤学とともに発展を続け、16世紀後期に李時珍が出した『本草綱目』はその最高峰と言うべき書物であり、江戸時代初めの日本に伝来したほか、周辺諸国のみならずヨーロッパでも翻訳された。 また、古代・中世においては魔術や不老長寿などを目的として天然の物質に加工を加えて、新たな物質を創造しようとする錬金術や煉丹術が東西を問わずに発生した。中国では早くから砒素や水銀が注目され、東晋の范汪は水銀利尿薬を発明したとされる。だが、同時に水銀中毒の記録も古くから存在していた。
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