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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:21 UTC 版)
1930年(昭和5年)の全日本テニス選手権でシングルス優勝。1931年からデビスカップの日本代表となる。同年の全仏選手権で初の4大大会準決勝に進出し、世界ランキング9位に入る。この大会では、当時の男子テニス界でダブルスの第一人者だったジョン・バン・リン(アメリカ)を準々決勝で破った。1932年(昭和7年)、ウィンブルドン選手権大会の準々決勝で前年優勝者のシドニー・ウッド(アメリカ)を破った。続く準決勝で敗れた相手は、イギリスのバニー・オースチンであった。この年は年末の全豪選手権でも、シングルスでハリー・ホップマンとの準決勝まで進み、混合ダブルスではメリル・オハラウッド(パット・オハラウッドの夫人)とのペアで準優勝を記録した。 1933年(昭和8年)は佐藤にとって最高成績の年となり、全仏選手権とウィンブルドン選手権の2大会連続でベスト4に進出し、とりわけ全仏選手権の準々決勝では、イギリスの英雄フレッド・ペリーを破っている。ペリーは今日でも“イギリスのテニスの神様”として称えられるほどの名選手であり、そのペリーを破ったことで佐藤の世界的な評価はさらに高まった。ウィンブルドンのダブルスでは布井良助(神戸高商卒)とペアを組んで決勝に進み、フランスのジャン・ボロトラ&ジャック・ブルニョン組から第1セットを奪った。この年はデビスカップの対オーストラリア戦で、当時の世界ランキング1位であったジャック・クロフォードを破ったが、佐藤はシングルス第2試合で当時17歳のビビアン・マグラスに敗れてしまい、佐藤自身は日本チームが2勝3敗で敗退したことに深い精神的ショックを受けた。一方、全米選手権には1932年と1933年の2度出場しているが、この大会では4回戦で終わっている。 当時の男子テニス世界ランキングは、イギリスの『デイリー・テレグラフ』紙の評論家であったウォリス・マイヤーズ(Wallis Myers)が選定しており、現在のようなポイント制とは大きく異なっていたが、1933年度で1位ジャック・クロフォード、2位フレッド・ペリー、佐藤は彼らに続く第3位にランクされた。また、佐藤などの活躍を受けて日本でも1933年10月に「テニスファン」という月刊雑誌が創刊された。ところが1933年10月後半から、佐藤の健康状態に異変が見え始める。彼は海外遠征に出始めた頃から、慢性の胃腸炎に悩まされてきた。しかし彼は日本のエースとしての責任感が強く、無理を押して試合出場を続行した。日本庭球協会で主導権争いをしていた早稲田派幹部からのプレッシャーも大きく、当時「デビスカップ選手派遣基金」を募集するに佐藤は必要不可欠な存在であり、どうしてもデ杯出場を辞退することができない背景もあった。
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