世界に転戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:55 UTC 版)
中学2年で出場した2004年1月の全日本卓球選手権ジュニアの部で優勝(男子では史上最年少)し、また一般の部もランク入りし、その天性の柔らかいボールタッチから話題になった。15歳になり名門青森山田高校に進学した。2005年には15歳10ヶ月という男子史上最年少で世界卓球選手権日本代表に選出された(当時。後に張本智和が更新)。当時の日本代表はアテネオリンピックなどの惨敗を受け、一気に若返りを図り水谷はその中でも最年少であった。当時の水谷は時として世界ランキング上位の選手に勝利を収めることもあった。また、代表の強化選手となったことで、岸川聖也らと共にドイツに留学。ドイツリーグの1部(ブンデスリーガ)でプレーして、一年の大半をドイツで過ごした。しかしイタリアンの店で、3〜4ユーロのピザとコーラという食生活で高校1年の時に右脛を疲労骨折。半年間も卓球から離れた。その後バランスの良い食生活の改善に心がけた。 2005年の第48回世界卓球選手権個人戦では当時世界ランク8位、アテネオリンピック5位であった荘智淵(台湾)をフルゲームの末に破った。当時、靖国神社参拝問題などにより日中関係が悪化し上海で行なわれたこの大会で大半の観客が水谷の相手選手である荘智淵に声援を送る中での勝利であった。同じ年に行われたアジア選手権では当時世界ランク2位、アテネオリンピック銀メダリストである王皓(中国)を破るなど日本の若きエースとなっていた。しかし、2006年初頭には足を疲労骨折するなどのトラブルもあった。 2006年(平成18年)度の全日本卓球選手権では男子シングルス、男子ダブルス、男子ジュニアの部シングルスを制し3冠を達成した。男子ジュニアの部シングルスでは史上最多の3回優勝の記録を残した。このうち男子シングルスでは3連覇を狙った吉田海偉を決勝で破り、史上最年少の17歳7ヶ月での全日本卓球選手権優勝であった(当時。後に張本智和が更新)。また、この優勝で2007年クロアチア・ザグレブでの世界卓球選手権(シングルス)の出場が決定した。 2007年、青森山田高校から「世界で戦うためのサポート体制がいい」と名門卓球部のある明治大学への進学を決め、同大学政治経済学部に入学した。2007世界選手権では男子ダブルスでペアである岸川と試合の45分前まで寝坊していて練習もできずにラバーを貼り直して試合に望んだにもかかわらず、相手中国の馬龍ペアに勝利した。2007年/2008年シーズンはドイツリーグの1部(ブンデスリーグ)のデュッセルドルフに加入。
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