不況と戦争 1929年-1945年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/13 09:22 UTC 版)
「マサチューセッツ州の歴史」の記事における「不況と戦争 1929年-1945年」の解説
合衆国が世界大恐慌に見舞われる前でさえも、マサチューセッツは経済問題を抱えていた。主要産業の崩壊は工業都市の人口を減少させた。ボストン都市圏は1920年から1950年にかけて合衆国で最も成長率の低い地域となった。しかし、州内の人口移動は世界大恐慌で変化させられた。経済的苦境の中で人々は職を求めてボストン都市圏に移動し、高い失業率と惨憺たる状況に直面することになるだけだった。この時代のボストンを支配していた不況下で、人種的な対立がギャングの戦争に発展し、特にアイルランド系とイタリア系の間の衝突が甚だしかった。 マサチューセッツはこの期間に階級闘争も経験した。ローレンスで1912年に起こったゼネストが一つの例である。破壊的な出来事が続く中で、紡績工場のほとんど全てが窮乏を支えるだけの賃金闘争の結果として閉鎖を余儀なくされた。労働条件と賃金の問題は州全体で議論されるべきものとされた。例えば、州議会が女性と子供は州50時間までしか働けないとした時、雇用者はそれに比例して給与を下げた。その結果、ローレンスのストライキ参加者の要求が容れられ昇給がなされた。 マサチューセッツの経済と社会の動揺の結果として、州として機能するあり方が変わり始めた。政治は、社会の様々な階層にいる者を昇格させること、少数民族を影響力あるポストに就けることで社会集団の中の安定性を高めることを奨励した。マサチューセッツの主要産業であった製靴と繊維は、第二次世界大戦でも妨げられなかった景気の後退期に入った。かくして州の経済は戦後の始まりとともに変化していくことになった。
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