下流・河道の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 16:26 UTC 版)
豊平川はアイヌ語でサッ・ポロ・ペッ(乾いた大きな川)と呼ばれた。このサッポロペッが「さっぽろ」の地名語源である、江戸時代中期までのサッポロ川(豊平川)は現在の豊平橋付近で流路を北に向けて丘珠町を貫通し、現在の伏篭川(ふしこがわ)の流路をたどって北区篠路で茨戸川(石狩川)に注いでいたが、江戸時代後期・寛政年間の洪水で流路を東に変えてツイシカリ川(小沼川)の水系に流れ込み、厚別川、野津幌川を合わせた末に江別市対雁で石狩川に注ぐようになった。以降、それまでの豊平川をフㇱコ・サッポロ・ペッ(古いサッポロ川)、寛政年間以降の新流路をアシㇼ・サッポロ・ペッ(新しいサッポロ川)と呼び習わすようになった。この「フㇱコ」が伏篭川の地名語源である。また、一説によれば「アシㇼ」が、新しい豊平川に注ぎ込む支流の一つ「アシリベツ」「アツベツ」(厚別)の地名語源ともいう。 さて東から西に流れる石狩川から見ると、寛政年間以降の豊平川は西から東へ、脇を逆行してくる形であった。厚別川は大きく蛇行して豊平川に注いでいた。月寒川は、石狩川や豊平川が増水すると水が逆流して遡上してくることから逆川とも呼ばれていた。 明治末期に豊平川下流の捷水路が計画され、1932年(昭和7年)に着工にこぎつけた。完成には9年かかり、昭和16年に6.4キロの新水路が完成した。これにより豊平川は東雁来から北に向けて流れ、現在の江別市角山で石狩川に注ぐようになった。 この頃、国策として戦争に伴う食糧増産が求められ、長年手付かずだった厚別川下流域にも稲作の強化が求められるようになった。新水路開通によって新たに東米里地区の入植が始まった。山本地区では電灯が引かれ、昼夜を徹して排水路の工事が行われ、「弾丸排水」と呼ばれた。 厚別川は大幅に水量の減った旧豊平川に注ぐかたちとなったが、上流で毎年のように氾濫する厚別川は大量の土砂を押し流し、旧豊平川の川床に堆積した。このため厚別川下流の洪水は収まらず、むしろ悪化した。結局、東米里地区はもっとも長く洪水の被害を受けた地区となった。 1945年(昭和20年)には東京大空襲の戦災者が拓北農兵隊としてこの地域に移住し、1949年(昭和24年)から5年かけてこの地域から豊平川新水路への水路(旧豊平川捷水路)が新たに開削された。昭和38年にはこの捷水路と厚別川を結ぶルートが直線化され(厚別新川)、野津幌川は厚別川に注ぐ形となって現在の流路となっている。 現在の厚別川は、厚別七号橋付近で道央自動車道と交差すると、左岸から旧豊平川、右岸からの野津幌川が合流し、札幌市と江別市との市境となる。この合流点付近では厚別区と江別市の境界が現在の人工の直線的な河道からはずれて蛇行しており、旧い河道の名残を伝えている。江別市に入ると両岸は畑作地帯となり、右岸から世田豊平川を分けたのち、北西に転進(厚別新水路)して江別市角山で豊平川に注いでいる。
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