三郎 (呼出)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 09:08 UTC 版)
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基礎情報 | ||||
呼出名 | 三郎 | |||
本名 | 荒俣 武雄 | |||
生年月日 | 1927年10月25日 | |||
没年月日 | 2021年12月28日(94歳没) | |||
出身 | 富山県富山市 | |||
所属部屋 | 花籠部屋→放駒部屋 | |||
データ | ||||
現在の階級 | 定年退職 | |||
最高位 | 一等呼出 | |||
初土俵 | 1955年 | |||
引退 | 1992年 | |||
備考 | ||||
2023年10月2日現在 |
三郎(さぶろう、本名:荒俣武雄、1927年10月25日 - 2021年12月28日)は、大相撲の呼出。富山県出身。
人物
呼出になる前は富山で薬売りをしていたが、1955年に28歳で花籠部屋から初土俵を踏む[1]。花籠部屋の閉鎖に伴い1985年に放駒部屋へ移籍し[2]、1992年10月に停年(定年)退職した[1]。
「透き通る美声が角界一」という評もあったが、入門が遅く、当時の等級では最高の一等までいったが、最後は十両取組担当の順席15人目(番付制導入以前、名鑑による)として停年を迎えた[1]。停年の際には「私にとっては定年でなく卒業なんです」と語り、角界を離れた後も講演活動などを続けた[1]。呼び上げ以外にも「相撲甚句の名人」の異名を取っていた[1]。同部屋の弟弟子だった克之とは晩年まで交流を持っていた[1]。
2021年12月28日に老衰のため死去[1]。94歳没。
履歴
- 1955年9月場所 初土俵。
- 一等呼出
- 1992年9月場所限り 停年退職。
脚注
「三郎 (呼出)」の例文・使い方・用例・文例
- 三郎はテーブルの上に出されたおやつをガッと取った。
- 三郎という,男子の名前
- 加藤氏の側近,佐藤三郎氏が約1億円を脱税したとして3月初めに起訴された後,加藤氏は佐藤氏の行動に対する責任を取って,自民党を離党した。
- 川(かわ)淵(ぶち)三郎会長は,「我々のチームのすばらしい勝利がなかったら,日本サッカーは人気を失っていたかもしれない。本当に幸せだ。」と語った。
- 調査によると,白組の上位3組は,氷(ひ)川(かわ)きよしさん,SMAP,北島三郎さんだ。
- 日本サッカー協会の川(かわ)淵(ぶち)三郎会長は,バーレーンとの試合に満足していないようだった。
- 日本サッカー協会の川(かわ)淵(ぶち)三郎会長は,「我々のチームが人工芝で試合をしなくてよくなったことは好都合だ。」と述べた。
- 彼は,1927年に慶(けい)應(おう)大学の宮(みや)武(たけ)三郎投手が勝利して以来,80年ぶりに開幕戦に勝利した1年生投手となった。
- 12月7日の記者会見で,同協会の川(かわ)淵(ぶち)三郎会長は「岡田氏は厳しい状況下でこの職を引き受けてくれた。彼の決意に感謝している。」と話した。
- 北島三郎さんは歌手の中で最多となる48回目の出場だ。
- 北島三郎さんは,出演者の中で最多となる49回目の出場を果たす。
- 勘三郎さんは昨年12月に57歳で亡くなった。
- 勘三郎さんの息子の中村勘(かん)九(く)郎(ろう)さんと中村七(しち)之(の)助(すけ)さんは,「お祭り」で坂(ばん)東(どう)三(み)津(つ)五(ご)郎(ろう)さんらと共演した。
- 「忠三郎狂言会」の事務局長として,また京都の学校の日本伝統文化の教員として,国内外の人々に狂言を広めようと尽力している。
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