七奉行の台頭
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中曽根康弘は5年間に亘り内閣総理大臣を務め、竹下の自民党総裁就任にあたって影響力を行使したものの、リクルート事件で党籍離脱に追い込まれたため、経世会への求心力がますます高まった。その頃から七奉行は次々と要職に起用されてゆき、権力の中枢を歩むことになる。宇野政権では大逆風となった1989年参院選に敗れた橋本幹事長が「チクショー」と悔しがるシーンがTVで放映され話題となったが、この参院選では不人気の宇野首相に代わり、人気弁士として全国を応援に回った橋本が評価を高めることになった。 こうして最初に総裁候補とされたのが1989年のポスト宇野総裁選びでの橋本だった。しかし、この時小沢が橋本の女性スキャンダルを探し出した。これが「一龍戦争」の発端である。結局、金丸が担いだ海部政権では、橋本と入れ替わるように小沢が幹事長に就任。海部政権の長期化と共に小沢の権力伸張は著しくなる。金丸の威光を背景に政策を牛耳り、竹下派竹下系を政策中枢から外したため、橋本・梶山らが不満を募らせる。 1991年5月の東京都知事選挙では、小沢は都連と対立した上に敗北。この責任を取り小沢が幹事長辞任、後任幹事長に派副会長だった小渕が就任。しかし、小沢は同じく派副会長から会長代行に昇格、派での影響力を増すことになった。この異動には将来小沢を会長に据えたい金丸の意向があった。これに対し竹下は総裁再登板こそ望まなかったものの、金丸と小沢の強引さについて危惧しており、小沢を会長に据えることには反対だった。 1991年9月、小選挙区法案を巡り、解散反対派の金丸系と、解散賛成派の竹下系が完全に対立する。海部は選挙制度改革派の若手に押され「重大な決意で臨む」と記者会見などで発言し解散して信を問う決意を固め、小渕幹事長も解散準備を行うものの、解散決定の閣議15分前に小沢会長代行が海部に「経世会は解散を支持せず」と伝える。進退窮まった海部は内閣総辞職に追い込まれた(海部おろし)。この時は金丸系と竹下系の役回りが逆だったと思われていることが多い。 10月10日、自由民主党総裁選挙において海部の後継総裁を争った宮沢喜一・渡辺美智雄・三塚博との面接を行ったのが小沢と渡部であり、小沢の個人事務所で実施されたことから「小沢面接」と呼ばれた。当選回数や年齢などで上の人間を自分の事務所に呼びつけた小沢面接には党内外から批判の声が上がった。小沢は祝日にホテルを確保するのは面倒だったと回想している。金丸は最終的に鶴の一声で渡辺支持から宮沢支持に切り替えた。
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