ロックフィルダムの採用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 10:01 UTC 版)
「御母衣ダム」の記事における「ロックフィルダムの採用」の解説
当初は高さ120メートル、総貯水容量約3億2,000万立方メートルの重力式コンクリートダムとして計画されていたが、その後計画は大きな壁にぶつかる。その原因は地質の脆弱(ぜいじゃく)さにあった。この一帯は断層が多くまた崩落の激しい地質で、1585年(天正13年)には大地震によってダム地点直下にあった帰雲城ががけ崩れで埋没し城主内ヶ島氏理一族が滅亡するという歴史もあった。事業の重要性と困難性に鑑み、発足したばかりの関西電力では工事の遂行が困難であると見た政府は1952年(昭和27年)に発足した特殊法人・電源開発に事業を移管させる方針とした。これは電源開発促進法第12条第2項に定められた電源開発が行うべき開発理由である「河川等に係る大規模又は実施の困難な電源開発」に御母衣地点が該当するためであり、同年の第3回電源開発調整審議会で正式に電源開発が事業主体となることが決定。以後関西電力に地質調査を代行させながら事業を進めた。 地質調査の進捗に伴い、地質の劣悪さがさらに判明していった。建設地点を何箇所か変更しても結果は同じであり、重力式では事業費が高騰することが予想された。電源開発は地質が弱くても建設が可能なロックフィルダムによる建設の検討を開始する。当時、建設省(現・国土交通省)が岩手県に石淵ダム(胆沢川)を、また岐阜県が小渕ダム(久々利川)をロックフィルダムとして完成させていたが何れも中小規模であり、高さ100メートルを超えるロックフィルダムの建設は日本では実施されていなかった。電源開発はアメリカ合衆国より技師や地質学の専門家を度々招聘して助言を受け、さらに各電力会社の土木部長や土木学の専門家を現地視察に招いて意見を求めた。この頃は朝鮮戦争に伴う特需景気で工業地帯の生産力が飛躍的に向上し日本経済は活性化に向かっており、一層の経済発展にはさらなる電力の供給が不可欠であった。また民間の電力需要も急上昇していたが当時の日本は戦時中の物資不足や空襲による施設破壊により発電施設が絶対的に不足していたため電力の需要と供給が著しく不均衡な状態に陥っており、慢性的な電力不足による度々の停電に悩まされていた。従って安定した電力供給は日本経済の発展と治安維持の両面で喫緊の課題となり、早急な電力開発は国策にもなっていた。 早急な新規電力開発、および電気料金に影響を及ぼさない費用対効果の観点より出た結論はロックフィルダムの採用であり、1954年(昭和29年)に御母衣ダム計画は日本初の大規模ロックフィルダム計画としてスタートした。
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