ヨルダンとの衝突
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「アラブ連合共和国」の記事における「ヨルダンとの衝突」の解説
アラブ連合は、間に挟まれたヨルダンにとって大きな脅威となった。1956年にヨルダンのバアス党と共産党の統一戦線を率いて首相になったスレイマン・アル=ナブルシーがナセルに接近した際は王政の危機を経験していた。ヨルダンにとって隣国シリアは反政府煽動の拠点で、フセイン1世国王に対する陰謀をめぐらす者たちの避難場所であった。エジプトの急進的な政治姿勢もヨルダンに不安を与えた。フセイン国王のとった策は、同じハーシム家の一員であるイラク王国のファイサル2世に、アラブ連合に対抗するヨルダン=イラク同盟(アラブ連邦)結成を提案することだった。アラブ連合成立から間もない1958年2月14日にアラブ連邦が成立し、軍の統一、軍事費の統合(80%がイラク負担、20%がヨルダン負担)が行われた。合意に基づき、両国の部隊の交換も行われることになった。 しかしこの連邦は夏にイラクのクーデター(7月14日革命)で瓦解した。1958年7月上旬、フセイン国王とファイサル2世を両方打倒する陰謀が明るみに出た。ヨルダンにいた陰謀参加者の一人はエジプト人諜報員の参与があったと明かし、陰謀も中止されたと述べた。これに対しイラクはアラブ連合の圧力が迫るヨルダンへ軍を増派しようとしたが、7月14日、ヨルダンへ向かう予定だったイラク軍部隊は立ち寄ったバグダードでクーデターを行い共和国樹立を宣言、ファイサル2世と皇太叔父、その他王族は宮殿で射殺されイラク王国は滅亡した。首相ヌーリー・アッ=サイードも逃亡に失敗し殺された。このクーデターに関し、エジプトやアラブ連合は積極的に関わっていなかったと見られている。しかしクーデター宣言後、アラブ連合はカーシムらのイラク新政府への支援を発表、これを承認し、シリア・ヨルダン間の国境を封鎖した。国境のシリア部隊には厳戒態勢が下された。 これら一連の出来事はフセイン国王にとり大きな圧力となった。1962年、彼はアラブ連合について、「彼らには大きな野心がある、私が信じるところではそれは、アラブ世界の支配ではすまないものだ」と述べている。ヨルダンの貿易路は断ち切られ、イラクが石油供給の生命線を握った。フセイン国王はアメリカ合衆国に、イスラエル経由の貿易路をもうけるための支援を依頼している。 ヨルダンの政治情勢は悪化し、ダマスカス放送はヨルダン市民に「ハーシム家の専制」に対し立ち上がるよう呼びかけた。フセイン国王はついに、かつての宗主国だったイギリスと手を結ばなければならない所に追いこまれた。イスラエル、アメリカ、イギリスの三国によるヨルダン王政支援は、ヨルダンとアラブ連合が武力衝突する事態を回避するために大きな役割を果たした。
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