ヨルダンとの衝突とは? わかりやすく解説

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ヨルダンとの衝突

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:56 UTC 版)

アラブ連合共和国」の記事における「ヨルダンとの衝突」の解説

アラブ連合は、間に挟まれヨルダンにとって大きな脅威となった1956年ヨルダンバアス党共産党統一戦線率いて首相になったスレイマン・アル=ナブルシーがナセル接近した際は王政危機経験していた。ヨルダンにとって隣国シリア反政府煽動拠点で、フセイン1世国王対す陰謀めぐらす者たちの避難場所であったエジプト急進的な政治姿勢ヨルダンに不安を与えたフセイン国王のとった策は、同じハーシム家一員であるイラク王国ファイサル2世に、アラブ連合対抗するヨルダンイラク同盟アラブ連邦結成提案することだった。アラブ連合成立から間もない1958年2月14日アラブ連邦成立し、軍の統一軍事費統合80%がイラク負担20%ヨルダン負担が行われた。合意に基づき両国部隊交換行われることになった。 しかしこの連邦は夏にイラククーデター7月14日革命)で瓦解した1958年7月上旬フセイン国王ファイサル2世両方打倒する陰謀明るみ出たヨルダンにいた陰謀参加者一人エジプト諜報員参与があったと明かし陰謀中止されたと述べた。これに対しイラクアラブ連合圧力が迫るヨルダンへ軍を増派ようとしたが、7月14日ヨルダンへ向かう予定だったイラク軍部隊立ち寄ったバグダードクーデター行い共和国樹立宣言ファイサル2世と皇太叔父その他王族宮殿射殺されイラク王国滅亡した首相ヌーリー・アッ=サイード逃亡失敗し殺された。このクーデター関しエジプトアラブ連合積極的に関わっていなかったと見られている。しかしクーデター宣言後、アラブ連合はカーシムらのイラク新政府への支援発表、これを承認し、シリア・ヨルダン間の国境封鎖した国境シリア部隊には厳戒態勢下された。 これら一連の出来事フセイン国王にとり大きな圧力となった1962年、彼はアラブ連合について、「彼らには大きな野心がある、私が信じるところではそれは、アラブ世界支配ではすまないものだ」と述べている。ヨルダン貿易路は断ち切られイラク石油供給生命線握ったフセイン国王アメリカ合衆国に、イスラエル経由貿易路をもうけるための支援依頼している。 ヨルダン政治情勢悪化しダマスカス放送ヨルダン市民に「ハーシム家専制」に対し立ち上がるよう呼びかけた。フセイン国王はついに、かつての宗主国だったイギリスと手を結ばなければならない所に追いこまれた。イスラエルアメリカ、イギリス三国によるヨルダン王政支援は、ヨルダンアラブ連合武力衝突する事態回避するために大きな役割果たした

※この「ヨルダンとの衝突」の解説は、「アラブ連合共和国」の解説の一部です。
「ヨルダンとの衝突」を含む「アラブ連合共和国」の記事については、「アラブ連合共和国」の概要を参照ください。

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