ヤコブの浅瀬とシャステレ砦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/14 07:52 UTC 版)
「ヤコブの浅瀬の戦い」の記事における「ヤコブの浅瀬とシャステレ砦」の解説
ヤコブの浅瀬は、エルサレムの北およそ100マイルのヨルダン川にありアッコン、イスラエルとダマスカスの間の主要街道の一つであった。その場所と重要性のためにヤコブの浅瀬もまたヨルダン川の最も安全な交差点の一つであり、「キリスト教のパレスティナ」と「イスラムのシリア」の文化間の主要な交差点として役立っていた。12世紀に、ボードゥアンとサラディンはヤコブの浅瀬が位置する地域で争い続けた。大胆な戦略的行動とモンジザールでの軍事的勝利の結果、ボードゥアンはヤコブの浅瀬へと進軍して領土に防衛用の砦を築く決心をした。王と彼の軍は、砦はエルサレムを北方からの侵略から守ることができるとともに、サラディンの勢力下にあるダマスカスへ圧力を与えることができると考えた。1178年10月と1179年4月の間、ボードゥアンは新たな防衛線、つまりヤコブの浅瀬のシャステレと呼ばれた砦の構築に着手した。建設が進んでいた一方で、サラディンは、もしシリアを防衛してエルサレムを征服しようと思うならば、彼がヤコブの浅瀬を奪取しなければならないと理解していた。しかし、その時はイスラム教徒の反乱鎮圧のために兵の大部分を北シリアに配置していたために、彼は軍事力ではシャステレの建設をやめさせることができなかった。ある著者の記すところでは、「事実、そうではない場合よりは、他のイスラム教徒との戦争を行うのにキャリアを費やしていたにもかかわらず、サラディンは常にヨーロッパの侵入者に対するイスラムの第一人者を演じることに苦労していた」。その結果、そのスルタンはボードゥアンを6万ディナールで買収して建設をやめるよう要請した。ボードゥアンは断ったが、サラディンは増額して10万ディナールの条件を出してきた。キリスト教の王は再び拒んでシャステレ建設を続けた。1179年の夏までに、ボードゥアンの軍は石の城壁のかなりの部分を築いた。「今や城は強力な10メートルの高さの城壁――ある同時代のアラビア人は後に『石と鉄の難攻不落の城壁』として述べている――まだできてはいないが一つの塔を有していた」。
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